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名前の持つ影響力、ブランド名を大事にしない人達に、
感動を呼ぶ作品が送り出せるのだろうか?
作り手とファンの気持ちが育んできたブランド力が感動を積み上げてきた。死ぬまで新社名に馴染まないだろう。それも止む無し。
#サンライズを語る
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1993年某日、サンライズがバンダイへの株譲渡をする話しを聞いたのは銀座の風月堂であった。
社長以下専務、常務の三人に呼び出され、傘下に入ると。
まさに、晴天の霹靂、玉音放送であった。
昨日までプロダクションは自立してこそ良い作品が生まれる。独立独歩の精神こそ根幹。
#サンライズを語る
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意外に冷静にその話しに対応した自分がいた。
色々な理由を述べていたが、とにかく自分達が経営を続け、年取ってから冷静な判断が出来ず、会社にとって老害となるのだけは阻止したいと。
スタジオ経営の厳しさは身に染みていたが、いずれはそう言った事もあるでしょう、それを前倒しすると言うこと?
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その上で会社を一番理解してくれるだろうバンダイに譲渡すると。
ガンダムの最大のクライアントであるバンダイと組むのは至極当然の判断だ。
自分のあっさりしたリアクションに少々意外な顔付きの三人。
自分はどうなるんですか?
引き続き、会社の中心となって働いてもらうと。
スタジオはアニメをー
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今まで通り作り続けるのと、中心メンバーは変わらず残すのを条件とした⁉︎と。
自分は売られたな、と思った。
しかし、当時自分はバンダイ担当であり、たくさんの知り合いもいたので、まあ今まで通りかと思って、色々な思いは封印した。
しかし社内の他のメンバーは、この状況に右往左往だった。
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社内の発表を、いつどうやったか全然記憶に無い。
当然最初は箝口令が引かれ、知っているのはごく一部のメンバーだけだった。
タカラ担当の吉井Pは血相変えて、絶対認めない!撤回させよう!と社長達に詰め寄っていた。
自分のサンライズ退社のカウントダウンはこの風月堂会談から始まったのだろう。
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#サンライズを語る
既に30年近く経った。Vガンダムの放送中、Gガンダムの企画中に株譲渡は発表された。
今これまでの歴史を振り返ると、バンダイグループに入った事は成功だったのだろう。
しかしグループ入りしていなければ、Gガンダムはあそこまで振り切れなかっただろう。
まさに開き直りだった。
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水面下でいつから話しが始まったのかは不明だが、Vガンダムの放送前だろうと思う。
当時のオーナー役員達も虫プロ時代から、様々な苦労をして来てたから、相当疲れていて、ガンダムと言うヒット作品も出せ、経営的にも資産的にももう充分と思っていたように見える。
正直もう少し夢を見て欲しかった
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会社の未来をどう分かち合うのか、当時のバンダイ山科社長と、サンライズの役員達との信頼関係があったからこそ、実現出来た案件だった。そしてそれは山科元社長のバンダイにおける最大の功績だと思っている。数百倍の価値を生み出しているはず。当時のガンダムはと言うと、かなり微妙な状況だったー
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ガンダムの名の下、原作者であるサンライズがノーコントロール状態のコンテンツが子供達の支持を得ていた。コンテンツの中心にいる出版社の編集長に、もうリアルGの時代では無いね、とまで言われ.この状況に対し色々議論したが、サンライズは関わらないと決めた。制作者としては敗北であった。そこでー
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新TVシリーズガンダムは、ターゲットを下げようと主人公の年齢も下げた。やはり、SDガンダムの影響が強かった。
富野監督も納得していた。作画現場的に非常に厳しい環境の中、F91や0083の作画クオリティをTVでは無理であった。テレビ朝日で始まったそのシリーズは、局さんには歓迎されていなかった
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代理店持ち込みの営業企画、過去の1st他TVガンダムは系列の名古屋テレビ、大ヒットの恩恵を受けてない局としては仕方ないと言う空気。
電通、初めてのアニメ作品にアニメスキームを殆ど全部教えた。当時アニメ番組の売上げなど眼中にない代理店が今は多数担当してるのは皮肉。時代の移り変わりを感じる
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ここに新しいサンライズと言うアニメスタジオを誰か作りませんか(笑)
#サンライズを語る twitter.com/takama2_shinji…
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だから、次はガンダム以外で監督と作品を作ると心に決めていたが、気がつくと10年が経っていた。0083で久しぶりにガンダムに戻ったが、それは富野監督ではなかったので、当時並行して作っていたF91本家本元に、若手を中心に対抗しようと頑張ったが、結果は新しいガンダムは作れなかった。
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番組が始まり3ヶ月ほど経った頃、私と山浦社長、富野監督の三人がバンダイの役員の方に呼ばれ、浅草の本社に伺った。
そこで、出てきたものはー
富野監督、烈火の如く怒り怒鳴った!
ーこの顛末は、3月13日に行われるイベントにて発表!
詳細は後日発表いたします!
#サンライズの全てを語るイベント
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#独立プロサンライズを語る サンライズはしたたかな会社だった。1988年4月名古屋テレビ夕方枠でタカラがスポンサーの「サムライトルーパー」が始まった。1982年「ザブングル」から「ドラグナー」まで、 ガンダムZ、 Z Zを挟み6年間88年1月までバンダイがスポンサーだった。ライバル会社が3ヶ月後に
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独立プロにとってスポンサー、テレビ枠は生命線だ。特に東京キー局に枠を持っていない会社としては絶対死守したい名古屋テレビ枠だった。細かい事情は言えないが、ドラグナーの後番組の企画にバンダイさんは乗ってくれなかった。最後まで必死で営業したが、叶わず、急遽ライバル会社に企画提案したがー
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もう時間がなかった。急遽穴埋め作品を3ヶ月挟み、サムライトルーパーを放送した。テレビ局との信頼関係、タカラに虫プロの仲間が居たのが決めてだった。その後タカラとの勇者シリーズに繋がって行く。
後にバンダイの方が地団駄踏んで悔しがったと風の便りに聞いた。会社存続を賭けた大バクチだった。
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#独立プロサンライズを語る 生き残る為には、何でもする。クローバーとガンダム、トミーとイデオン、タカラとダグラム、後にバンダイ、玩具メーカーと全方位に仕事をする。80年代はサンライズロボットアニメの絶頂期であった。
トヨタ、日産、ホンダの新車開発に全て関与する、常識ではあり得ない事
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当然企画内容は守秘義務で秘匿されるが、企画担当役員は各社へのプレゼンやオーダーを聞きながら、担当者と企画を進めて行く。一日で、玩具メーカー巡りをすると言う日も多かった。
こんなにロボット企画が作れたのも大河原邦男さんを中心に多くの優秀なメカニカルデザイナーがいたからだ