デヴィッド・ボウイ 名言集(@DavidBowieBot)さんの人気ツイート(リツイート順)

(ボウイとの対談での印象的な内容) 強く仰っていたのが、自分は「レッツ・ダンス」で破格の成功を収めたけど、それにより逆に満たされないものも増えた、という事でした。ー売れる事によって失くすものも多いという事、自分を見失わない事の重要さについて、切々と語ってくれましたね。 ー吉川晃司
(これまでのキャリアでアートに果たした最大の功績は何だと思いますか?) ふーむ・・・ジャンルに対する節操の無さ、かな?
僕の衣装はほぼ全て日本製なんだ。歌舞伎みたいな服が大好きなんだよ。(74年) ✳︎山本寛斎氏による有名な『出火吐暴威』の衣装は、歌舞伎の早変わり技『引き抜き』を参考にしている
(83年日本語を話せますか?) スコシ…。 オッス! オイシイデス。 サケヲクダサイ(笑)。
私とデヴィッド・ボウイの出会いは中学生の頃でした。ーデビュー初期もグラム・ロック時代もアメリカ時代もベルリン時代もその後の時代も全部好きで、デヴィッド・ボウイのファンの多くがそうであるように、私もまた彼の音楽だけでなく彼のアート、彼の存在そのもののファンでした。 ーー北川景子
今夜は皆で幸せを祈ろう。壁の向こう側にいる我々すべての友人たちに願いを送ります。 ✳︎87年ボウイはベルリンの壁の西側で野外ライヴを行い、スピーカーを東側にも向けて設置した。音漏れを聴いている東側の群衆に対し、ドイツ語でこの様に述べて「ヒーローズ」を歌った
虚無主義的な見方をしたり、否定的な立場を取るというのは実に容易な事です。しかし、私はそういう傾向を変えたいと願っているのです。「この世は問題だらけだ」「それならどうしたら問題を解決できるのか」、そういう考え方をするべきだと思うのです。
私とデヴィッド・ボウイの出会いは中学生の頃でした。ーデビュー初期もグラム・ロック時代もアメリカ時代もベルリン時代もその後の時代も全部好きで、デヴィッド・ボウイのファンの多くがそうであるように、私もまた彼の音楽だけでなく彼のアート、彼の存在そのもののファンでした。 ーー北川景子
(米同時多発テロを受けた『コンサート・フォー・ニューヨーク"』で、サイモン&ガーファンクル『アメリカ』をカバーした背景) あの曲は歌詞から簡単に意味が読み取れるような単純な曲じゃない。「アメリカにいる自分達」「アメリカ人の自分達」に対して質問を投げかけてるんだ。
失敗してこそ強くなる。1週間に良い失敗を3回しなかったら、僕には価値がない。人は失敗から学ぶものなんだよ。
寒い朝、目を覚ますと、ここが京都あたりで、禅の修行場だったらいいのになと思うことがちょくちょくある。ベッドを出て煙草に火をつけて、近所をひと回りして、ようやくその感覚が振り払えるんだよ。
イギーは生まれつき演劇の要素を持っている男だ。ただ、芝居の常識やルールなんかとは、まるっきり縁が無いのが面白い。いわばイギー独自の『デトロイト劇場(デトロイトはイギーの活動拠点)』みたいなものさ。 ✳︎動画:TV番組でのイギー&ピアノとコーラスを担当したボウイ
(成功について) 君が乗っている車を誰かが猛スピードで飛ばす。君自身は運転は出来ず座席に座って驚く声を上げてるだけ。その状態の善悪など分からないままでね。まるでそんな感じ。それが成功の正体。全くの無名だった者があっという間に有名になってもてはやされる。本当に恐ろしいものだったよ。
(ボウイ自身が執筆した『ボウイ53歳とボウイ23歳の対談』より) ミック・ジャガーにはもう会った?彼とは絶対に気が合うはずだからね。 ✳︎シングル『Dancing in the street』で共演した2人 #HappyBirthdayMickJagger
(77年事故死したマーク・ボランへの追悼文) 彼は素晴らしい人間で、これまで出会った中で一番おかしな男だった。 一緒にいる時はいつも二人で床に笑い転げていた。 マークがいなくなって本当に寂しい。 彼は輝く星だった。 ✳︎写真:マーク・ボランの葬儀に駆け付けたボウイ
僕たちは「今」に思い切り焦点を絞って生きていかなければならない。そうでないと、未来の約束や夢やらに足元をすくわれてしまう。
(87年あなたは成功を求めて努力し、それを勝ち取りましたが?) いえ、それは違います(笑)。私は「成功」では無く、芸術的に意味のある事をしようと努めてきました。「成功」というのは物質的なものですが、私が最初から求めていたのは芸術的な価値でした。
今の世の中って、余りにも沢山の情報が溢れている。本当なら何が適切なものなのか選択して生活の中に取り入れていくべきなのに、それが不可能になってるよ。それを解決するには、僕達がもっとシンプルな生活スタイルに戻らなくちゃいけない。(83年)
派手なパフォーマーはたくさんいるけど、その中でもフレディ・マーキュリーは群を抜いていた。彼はまさしくオーディエンスを自分の掌中に握ることが出来る男だったんだ。
ジギーの半分はSFロック・スターで、もう半分は日本の演劇(歌舞伎)だったよ。
(集会禁止の東ベルリンで群衆に遭遇した時を回想して) 西ベルリンの屋外で、デヴィッド・ボウイがコンサートをやっていたのだった。ー電波をキャッチして聴いた方が明瞭だろう、と私は言った。「ライブだよ、どうしてもライブが聴きたかった」青年はそう言った。 ーー北方謙三(作家)
1日に赤のマルボロを30本吸っていた。その後マルボロ・ライトに変えて、今じゃ1日に60本吸ってる。僕は死が好きなんだ。死を感じるほど気分がいい。死は良いことだと思ってる。(95年)
(自身への評価について) あまり関係無いですね。私は家族とNYに住んで音楽を作っているだけの男で、常にそこに重点を置こうとしているのだと思います。他人の自分に対するイメージに酔うのは賢明ではありません。私はただの働くミュージシャンです。 ✳︎写真:ボウイ&長女アレクサンドリア
音楽のお陰で人生の苦難が弱まり、悲劇が薄まったとまでは言えない。それでも音楽は、孤独な時に誰かと関わりを持つ機会をくれたし、さまざまな人と触れ合う為の崇高な手段にもなってくれた。音楽は知覚の扉であり、僕の住む家でもあるんだ。 ✳︎Photo by Masayoshi Sukita
僕という人間は、気が変わりやすいのか、嘘つきなのか、自分でも分からない。その中間なんだろう。はっきりと嘘をついてるわけじゃない。しょっちゅう気が変わるだけなんだ。