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狐が送った音です。「黒猫」狐は吐息のような声を漏らしました。黒猫、黒猫、俺の黒猫。
世界は真っ黒に染まりました。黒猫の色です。狐は黒猫の色と音に包まれて、もうなにも怖くないと思いました。
続く
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大きな体を両手で包んであげました。
「黒猫」
うっうっ、と泣く黒豹を、狐は「黒猫」と呼びました。「俺の黒猫」と言って額を舐めてやると、黒豹はますます泣きました。もう首に回らなくなったのであろう鈴の付いた首輪は、手首にしっかりと巻かれていました。そこにいたのは、間違いなく狐の黒猫
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そしてきつく縛った縄を解いて、箱の蓋を開けました。
「ずっと黒猫と一緒にいたい」
狐は、初めて自分の望みを口にしました。一緒にいたい、いたい、いたいよ、と寝床の中で繰り返しました。黒猫に幸せになって欲しかった、けれど本当は、それと同じくらい、狐は黒猫と一緒にいたかったのです。黒猫が
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どんなに外の世界の素晴らしさを語っても、黒猫はいつもこんな調子で、狐の首筋に鼻を押し付けちりちりと鈴を鳴らすばかりです。狐は耳を伏せて「困ったな」と内心考えてから「俺も金があると嬉しい」と言いました。すると黒猫が真っ黒な目を丸くして「狐さんはお金があった方がいいですか?」と問うて
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きました。狐は父狐や、村人、そして医者のことを頭に思い浮かべました。そして「そうだな」とこくりと頷きました。金があれば、金があったから、金がなかったから、狐は悲しい思いをしたり何かを諦めてきた気がします。実際のところ、金があれば幸せかどうかなんてわかりません。ただ、それでも、
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黒猫には金で不自由な思いをして欲しくありませんでした。今は無邪気に自分との生活を一番だと思ってくれる黒猫も、いずれはその不便さや不自由さ、息苦しさに気付くはずです。
最近、村の若い者がそわそわとした顔で黒猫を見ているのを狐は知っていました。狐の目だけにではなく、誰の目にも黒猫は
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狐の優しくとも残酷な嘘を信じました。
黒猫が、この小さな村の小さな家に戻ってくる事は不可能でしょう。なにしろ黒猫はこの村の名前も知りません。例え目が見えるようになっても、村までの道のりを知らないので、帰りようがありません。狐は自分がどれだけ残酷なことをしようとしているかわかって
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狐はごろりと転げ落ちました。が、その体を誰かが受け止めました。驚いて身をひくと、りんりん、と懐かしい音がしました。いつもの幻聴かと思いましたが、あまりにも「そこ」にあるように鳴るので、狐は「黒猫?」と虚空に向かって問いかけてしまいました。返事はありません。狐は躊躇いながらも口を
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です。
多分、聞かなければいけないことや、謝らなければならないことがたくさんあると思いました。が、今だけは、その全てを忘れて狐は黒猫を抱きしめました。黒猫の大きな腕が、今は小さくなってしまった狐の背中に回りました。その腕の、たしかな温もりを感じながら、
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魅力的に見えるのでしょう。それはそうです、だって、狐の可愛い黒猫なのですから。黒猫がその視線に気付かなくてよかった、目が見えなくてよかった、と心の隅でぼんやりと考えてしまってから、狐は「いけない」と思いました。心の泉に沈めたはずの願いが、その箱の隙間から漏れ出していたのです。
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する事はない。それから、手術後すぐにお前が学校に行けるように手続きをしておいたんだ。うん、そう、ちゃんとお金を稼げるようにね。しっかり勉強するんだ。…え?もちろんいつでも帰って来ればいい。ここはお前の家なんだから……」
黒猫は何度も何度も狐に確認しました。狐はその不安を消して
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季節がいくつも過ぎました。狐は黒猫が来る前と同じような生活をしていました。変わったことといえば、荒屋を訪ねてくる人物が一人増えたことくらいです。それは、あの医者でした。彼は狐からきっちりと借金を取り立てていました。「悪いことをするにはこの村はちょうどいい」と言いながら。彼は豪華な
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狐はそんな卑しい自分がほとほと嫌になりました。黒猫の幸せを願うのであれば、そろそろ黒猫を手放してあげなければならないのです。
ある日狐は、黒猫に言いました。「今からお前の目が見えるように手術をする。お金?大丈夫、これまでにちゃんと蓄えておいたんだ。毛皮もたんまりある。なにも心配
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いました。しかし、それが黒猫にとって一番の幸せなのだと思っていました。こんな村で、嫌われ者の狐と暮らしていくより、街に出て学問を学び良き友を得て楽しく賑やかに暮らしていく方がいいのだ、と。狐は黒猫の素晴らしい未来を思い描き、精一杯の笑顔を浮かべました。そして今生の別れのつもりで
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ません。彼が泣いている気配が伝わってくるからです。狐の、痩せ細った腕を取って、声を噛み殺して泣いているのに気付いているからです。彼がどうして泣くのか、どうして何も言ってくれないのか、狐には思い当たるようで思い当たりませんでした。目が見えないと、相手の気持ちまで見えなくなるのだと、
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がくがくと揺すぶられて、包帯が緩みました。久しぶりの光に目を眇めた向こう側に、黒い何かが見えました。耳には、りんりんと軽やかな音が絶え間なく響きます。「そりゃあ、怒ってますよ……、いや、嘘、怒ってない…、怒ってる。悲しい、そして、悔しい……。違う、僕は、僕は……」「貴方がこんなに
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幸せになった今なら、その気持ちを口にしても許される気がしました。繰り返しているうちに、声がカサカサに掠れてきました。目の前も薄暗くなっていきます。遠くの方から、りんりん、と黒猫の鈴の音が聞こえてきました。小鳥の鳴き声より澄んだその音は、黒猫の音です。彼がどこにいてもわかるように、
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かも知らなかった狐は、自分の物知らずぶりに思わず笑って、そして泣きました。泣く狐を見て、医者は興奮した様子でした。いつもより手酷く扱われながら、狐は「黒猫」「俺の黒猫」と小さくこぼしてはしくしくと泣きました。もう自分の黒猫ではない……いや、元々その黒い毛の一片たりとも自分のもの
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それからまた、いくらかの時が流れました。ある冬、狐は風邪を引きました。初めはこんこんと咳が出る程度でしたが、そのうちに寝床から立ち上がれないくらいの頭痛に襲われて、目の前がぼやけて、手足が痺れて、水を飲むことすらできなくなりました。しばらくして頭痛は治り、熱も下がりました。が、
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じゃないか。てっきりもう興味がないのかと思っていたよ」なんて笑われて、腕を取られて乱暴に裏返されて……狐はぼんやりと荒屋の天井を眺めました。そう、自分の知らないところで黒猫は本当の家族を得て幸せに暮らしていたのです。しかも、黒猫はもう学園を卒業したのだといいます。学園に何年通う
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ごめんな」と謝りました。「黒猫、ごめん。お前を放り出した俺を怒ってるんだろう。なのに目を手術してくれたんだな。ありがとう、…ありがとう。でも、家なんていいんだ。金なんて…そんな。目が治ったらそれでいい。俺はあの村で暮らしていけるから。だから、お前は幸せに……」狐はずっと思っていた
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屋敷や素敵な家族を持つ立派な医者でしたが、この家に来る時は悪い男でした。文字通り「好き勝手」にされて、狐は自身の尊厳というものをくしゃくしゃにされてしまいました。医者が来た次の日は寝床から立ち上がることもできません。村人に「月に何日も寝込んで、役立たずだねぇ」と言われるので、無理
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そしていよいよ寝床から立ち上がれなくなった頃、狐は「そうだ」と昔のことを思い出しました。昔々、黒猫がまだ狐の黒猫だった頃、自分は自分の願い事を胸の中の泉に沈めてしまった、と。もう許される頃だろう、と狐は心の泉に潜り、縄でぐるぐる巻きにされた箱をそっと拾い上げました。
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何度も心の中で繰り返しました。辛いことがあった時、どうしても立ち上がれない時、そのことを思い出して、心の中で優しく撫で回して、そして元気を貰いました。黒猫のことを思えば、どんな不幸も幸せに変わりました。黒猫は、狐の希望でした。
しかし、ある時から医者はあまり黒猫の話をしなくなり
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なったせいかどうか、最近は現実にはない音を聞いてしまうようになりました。それはどれも、黒猫に関する音ばかりです。寝床に入って、ちりちりと可愛らしいあの鈴の音を聞いた…気がして何度飛び起きたことでしょう。今や黒豹として立派に自身の仕事を務めているだろう彼が、あの「黒猫」に戻ること