SOW@(@sow_LIBRA11)さんの人気ツイート(古い順)

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そういえば「国の借金」という話をすると、上には上がいまして、やれジンバブエだのギリシャだの、昨今だったらイギリスだのと言われますが、もっとものすごいのがいます。薩摩藩です。 今から200年ほど前の薩摩藩の借金は500万両。 現在の価値だと1兆円です。 人口100万足らずの国がw
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ちなみに薩摩藩の年間税収が14万両程度だったので、税収を全て返済に費やしても35年。 実際はそんなの不可能ですから、もう完全に破綻している状態です。 なんでこんなことになったかというと、いろいろ理由はありますが、
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薩摩というのは関ケ原で家康に敵対し、逆ギレ喧嘩アタックをしたにもかかわらず、領土を安堵された国です。 なんでそんな特別待遇が許されたかというと、それだけ徳川に恐れられたからです。 つまり、江戸幕府開闢250年間、ずっと「仮想的」扱いされ、経済制裁をくらってたようなもんなのです。
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薩摩にくだされた経済制裁がどんなものかというと、とにかくまぁ巨大な公共事業、治水工事だの幕府の城や大寺社の補修などに、年間国家予算級の金を支払わせ、常に困窮状態にさせ、戦争をしたくてもできない状態にしたんですね。
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そんなのが積もり積もって200年、そりゃあ財政も破綻寸前となります。だがしかし、コレに関して薩摩はどぎつい活路を見出す。 金を借りた豪商たちを集め、宣誓する。 「金は必ず返す、ただし、年2万両ずつ。利息は払わん」
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そう「250年かけて借金を返す」と言ったんです。 これが今から二百年弱前の話なので、実は薩摩藩、まだ借金の返済終わってないんですねw 完済予定が2035年くらいです。
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あまりに無茶苦茶なものいいでしたが、驚くことに、貸主たちは承諾します。まぁ半ばゴリ押しなとこもありますが、逆らえば殺されるか、もしくは召し上げや取り潰しを食らうかという恐怖もあったでしょう。
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とはいえこちら、完全に無茶でもないんです。 それもまず大前提として、薩摩・・・正確には、薩摩を治める、「島津」の信用度が高かったからです。 島津氏というのは、はるか昔から薩摩を治めています。 どれくらい昔かというと、徳川どころか室町以前、鎌倉幕府とほぼ同期。
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というか、島津市の開祖がいるのですが、その母親は「鎌倉殿」にも出てきた比企氏の女性。 佐藤二朗さんが演じていた、比企能員の義理の妹。 頼朝の乳母だった比企尼の娘です。 それが源頼朝に命じられて、薩摩の国主になったのですな。
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マンガ「ドリフターズ」の中で、主人公島津豊久の故国薩摩を、戦国武将の織田信長だけでなく、那須与一も知っていたのも当然で、「島津による薩摩統治」のほぼ同期だったからなんですな。
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要は、それだけ莫大な年月を治め続けていた者たちなのです。その間に、様々なことがありました。 他家ならとっくに滅んでいるような中、戦国期には上述の徳川だけでなく、豊臣とも敵対しながらも所領安堵を維持してきました。
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かつては名を馳せた山名や、武田が滅んだ中、なおもの頃続けた「島津」ならば、「二百五十年の返済」も決して夢物語ではない・・・「国家としての信頼の格付け」があったわけです。
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さらに言えば、商人たちにも「利」はありました。 当時の商人たちは保証がありません。 もしなにか社会的変動が起これば、一瞬で全財産を失うというケースも少なくはありませんでした。 だが、「借金」という形で、薩摩に預けたと考えれば?
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そうです、この時点で600年続いた国家に、「預ける」コレ以上の安心はそうはありません。 幸い毎年2万両ずつですが戻ってきます。 要は、島津国立銀行の低利息国債を購入したようなものです。
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この長期返済型に切り替えたことで、藩士に給金も払うこともできなくなっていた薩摩藩は、一旦息を吹き返します。それから二十年も経たずして財政再建を果たし、なんと、国庫に250万両溜め込むまでに至りました。
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この250万両の資産を元に、技術開発や経済振興を行い、さらに国力を増強したことで、薩摩藩は倒幕を果たしたと言われています。
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ちなみに・・・「で、借金はどうなったの?」という話ですが、まぁ結論から言うと、踏み倒しました。 五十年くらいは返してたみたいですが、その頃に廃藩置県が行われ、「一定年数以前の藩政時代の借金は無効」となりました。
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この「一定年数以前」に、たまたま、なんと、偶然にも、薩摩の「500万両の借金」が入ってたんですね。 まぁ・・・新政府のトップは薩摩出身者が占めてますがw
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そう考えると、「何だよ結局商人大損だったんじゃん」と思われるかもですが、さにあらずで、案外そうでもない。正確に言えば大損は大損だったんですが、被害額ならぬ被害価値は、さほどでもない・・・
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というのも、江戸期、この借金を拵えた200年前から、倒幕維新がなっての間に、えげつないインフレが起こりまくってんです。諸説ありますが、幕末の段階で最小で3倍、最大では6倍です。 この段階で、借金の実質価値、100万両以下になっていたわけです。
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しかも、明治になって、「円」が導入された際、「一両は一円」になりました。 この「円」の価値も、明治の末期には半分以下になってます。物価がどんどん上がっていたので。 この段階で50万両です。
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さらに日本は日清日露に第一次世界大戦と経験していき、好景気やら不景気やらなんやかんやあり、大正末期、明治初期には一円の価値は現在の600円くらいになります。 一兆円だった500万両の借金は、この段階で30億にまでなりました。
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そして昭和恐慌を経て、日本はハイパーインフレーションが発動、なんと昭和の二十年で物価は300倍に上昇。さらに終戦後もインフレは年125%で続き、薩摩が借金をして120年目で、1円の価値は現在の10円にまでなります。 ですから5000万ですね。
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そしてさらに60年経っての現在・・・1円の価値は1円です。薩摩が借りた500万両の借金は、現在の価値電も500万円です。いくらかは返済しているので、残っているのは400万円くらいでしょう。
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仮にかつての大商人たちの末裔が返済を求めたとしても、一人あたりの返済額は100万もないでしょう。 ちなみに島津家は今も続く鹿児島の地元大手企業ですから、払えと言われればその場で払える額です。