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家康死亡の報が岡崎にもたらさせたことは『三河物語』にも記されている。三方ヶ原の戦いで家康が死んだと伝えられ、浜松城でも混乱したため、家康の死は虚報と伝えたが収まらず、坊主頭の首を仕立て「信玄の首を取った」と嘘をつき、収めたという逸話もある。
#どうする家康
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『南総里見八犬伝』は曲亭馬琴の著作。文化11(1814)年からスタートして、28年かけて天保13(1842)年に完結した全98巻の物語。寿恵子にとっては40〜50年前の作品を愛し、「現八と信乃、尊い!」と言っているので、現代のオタクとやっていることは対して変わらないのよ。
#朝ドラらんまん
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「戦とは勝ってからするもの。」この言葉、家康はきっと肝に命じているよね。信玄からの学びが半端ではない。三方ヶ原の戦いがあったからこそ、その後の戦の「上手さ」に繋がってゆくのね。ただでは転ばぬ家康。
#どうする家康
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万太郎に「何もできない、世間知らず」と言っていた竹雄が、峰屋の中では「何もできない、頼られもしない」存在に。9歳のときから万太郎のことだけ見とればええ、と言われてそれ以外はやってこなかったんだから仕方ない。ただ、万太郎のことは誰よりも知っている。万太郎のプロだ。
#朝ドラらんまん
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最後通牒を突きつけられて、信玄に何一つ勝るものがないという家康に、
「恐れながら殿、この家臣一同がおります」
と夏目広次が励ます。この言葉を広次に言わせるのって、すごくないですか?このあとのことを思えば、広次の言葉は重い。今の家康があるのは家臣の力あってこそなのよ。
#どうする家康
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『#べらぼう』 蔦重来た! 描くのは #森下佳子 さん!夢のような大河だ。蔦屋重三郎出るなら、取り巻く人物は綺羅星のごとく。曲亭馬琴、山東京伝、十返舎一九、柳亭種彦、大田南畝、恋川春町、東洲斎写楽、歌川広重、渓斎英泉、それに田沼意次、松平定信などなど。楽しみでならねぇ! twitter.com/nhk_dramas/sta…
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自由民権運動の演説に出てきた「雑草は役立たず」に万太郎が一言申す。人が知らないだけで名のない草はない、毒にも薬にもなる役に立つもの、それを聞いて、早川は自由民権運動に繋げて解釈する。牧野富太郎博士の有名な「雑草という草はない」の話をここに繋げてくるとは!
#朝ドラらんまん
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この「はちきん」を地でいく楠野喜江、モデルは「民権おばさん」こと楠瀬喜多。夫の楠瀬実が明治7年に死亡、子がなかったので喜多が戸主となり税金を納めていた。ところが明治11年の選挙で納税者にもかかわらず、女性を理由に選挙権が与えられなかったことから民権運動をはじめる。
#朝ドラらんまん twitter.com/asadora_nhk/st…
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虎松(のちの井伊直政)はこのとき(元亀元[1570]年)数えで10歳(永禄4[1561]年生)。2歳のとき父 直親を今川氏真に誅殺され、新野親矩に保護されるが、親矩も永禄6年の曳馬城攻めで討死。永禄11年横領を目論んだ井伊家家老の小野道好(政次)に命を狙われるが、逃れて三河の鳳来寺に入った。
#どうする家康
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信長の、遠江を抑えるなら見付ではなく引間に城を作れ、は道理なんだよね。今後、武田家との対立を睨んだとき、見付では天竜川を背に戦うことになるけど、引間なら武田が攻めてきたとき、天竜川を挟んで対峙することができる。どこに対立する相手がいるのか考えなければならない。
#どうする家康
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信長が「よく考えろ」と言って、家康に金平糖を四粒渡す。土産の約束は、信康と五徳姫、瀬名と亀姫にひと粒づつ。信長、よく分かっている。
#どうする家康
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浅井長政が朝倉方についたことを知らせるため、お市の方が織田信長に陣中見舞いとして両端を縛った袋に小豆を入れて送った(小豆坂の戦いのときのように「袋のネズミ」であると教えた)話は後世の創作とされるが、お市の方の侍女 阿月に知らさせることで、この逸話を上手く入れたのね。
#どうする家康
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酒造りは長年の経験に裏付けされたものであるから、そこには科学とまで言えないものの、それなりの理由があって「女性は入ってはならない」が言い伝えられてきたのだと思う。台所仕事をしているから、様々な発酵食品を扱って、その菌を持ち込んでしまうとか(納豆は厳禁とされる)。
#朝ドラらんまん
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戦国大河の定番、金平糖。ポルトガル語の砂糖菓子を意味するconfeito(コンフェイト)が由来。諸説あるが、日本には天文15(1546)年に渡来したとされる。永禄12(1569)年宣教師のルイス・フロイスが二条城で織田信長に謁見した時、フラスコに入った金平糖が献上されたという記録がある。 #どうする家康
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五徳姫。織田信長の長女として永禄2(1559)年生まれる。永禄6(1563)年に家康の長男 信康との間に婚約がなり、永禄10年に9歳で嫁ぐ(信康も同じ歳)。今は永禄13年(元亀元[1570]年)なので互いに12歳。まんじゅうで喧嘩しても仕方ないか。因みに五徳姫、案外長生きするので驚く(78歳)。
#どうする家康
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団子を二つ出されて、「駿河は武田が、遠江は徳川が」と言われて同意する。だが、家康は団子のひとつをひとくち食べるだけで、その食い残しは信玄が全て食べてしまう。これも「駿遠分割」の今後を象徴的に表しているな。
#どうする家康
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お田鶴は「良かれ」と思ってなすことが裏目に出てしまうのね。関口夫婦と瀬名親子の駿府脱出のときも、夫・飯尾連龍の今川と松平の懸け橋になりたいという願いも、今川家に報告することで「上手くいく」とまっすぐに思っちゃうんだよね。この真っ直ぐさがのちの悲劇を生むことにもなる。
#どうする家康
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お葉。公式でも「西郡局(にしごおりのつぼね)として知られる」としている。出自は、鵜殿長照の弟で柏原鵜殿家を継いだ鵜殿長忠の養女(実父は長忠の家臣、加藤義広とされる)。長忠は長照が死亡した前後に松平家康に従っている。お葉の名は西郡局の法名「蓮葉院日浄」から採ったのかな。
#どうする家康
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家康の正室・瀬名(築山殿)が於大の方とともに側室を選ぶ。家康が気に入った相手であったとしても、瀬名が気に入らなければ拒否をするのは、武家において側室を置く場合、正室の許可を得なければならない(とされる)からだろう。(このあと家康は築山殿の許可を得ず、痛い目にあっている)
#どうする家康
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技術を売りたいのか、商品を売りたいのか、東大阪を売りたいのか。それによって作り方も、価格も、販売方法も変わってくる。技術を売るなら価格は下げられない。商品を売るなら中国で作ってもいい。東大阪を売るなら、みんなでスクラム組んで作るしかない。そのコンセプトすらブレている。
#舞いあがれ
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3万円が高いという話になっているが、技術的にみて、そうなるだろうな、という値段。これを中国で作らせるというと、似たものは作れるが、技術的にはかなり落ちると思う。日本国内で作っても、安くしようとすれば同じこと。安くするということはそういうこと。
#舞いあがれ
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すでに家康の手の中にその命を委ねていても、本多正信は「私の行動は間違いではない」と言い切り、家康の誤りであると直言する。「悔いなければならんのは殿の方だ」と。他の家臣がなんと言おうと、信に足るのは正信となるわな。家康から「友」と呼ばれるようになるよね。
#どうする家康