虎松(のちの井伊直政)はこのとき(元亀元[1570]年)数えで10歳(永禄4[1561]年生)。2歳のとき父 直親を今川氏真に誅殺され、新野親矩に保護されるが、親矩も永禄6年の曳馬城攻めで討死。永禄11年横領を目論んだ井伊家家老の小野道好(政次)に命を狙われるが、逃れて三河の鳳来寺に入った。 #どうする家康
刀は、斬り手によって名刀にもなればなまくらにもなる。 頼朝はお飾りと言っていたことを汲み取れば、頼朝をどう使うか、その使い手の力量で名将にも凡将にもなるということを梶原景時は言いたいのだな。それを義時にいうのは、今後を考えればなかなかだ。#鎌倉殿の13人
秩父   畠山  重弘━┳━重能━━━重忠━━重保     ┃     ┃小山田  稲毛     ┗━有重━┳━重成          ┃          ┃榛谷          ┗━重朝 畠山重忠と稲毛重成は従兄弟同士。そして、ともに北条時政の女婿である。 #鎌倉殿の13人
今川義元に「側室はまだ尚早。」と言われていたが、今川氏真はこれ以前の天文23(1554)年に北条氏康の長女である早川殿を娶っている(正室)。これにより、世にいう「甲相駿三国同盟」が成立した。松平元信(徳川家康)は弘治3(1557)年正月に瀬名(築山殿)と結婚。元信16歳、瀬名18歳(推定)。 #どうする家康
今回出てきた吉良義昭(西条吉良家)は、後の吉良上野介義央には繋がらない方の吉良(東条吉良家)です。繋がるのは、義昭の兄にあたる吉良義安(西条から養子に入る)になります。そして義安の孫の代で今川氏真の娘と結婚したので、孫にあたる義央には今川の血も入っています。さすが奥高家! #どうする家康
【訂正】ここで「平安期」と書きましたが、京で一里を三十六町と計算するのはこの鎌倉幕府成立よりも少し下るようです。ですので頼朝の勘違いはなさそうです。里程としては二十五里≒16.35キロでしたから、ただ歩きたくない、が先立っただけかもしれません。
家康死亡の報が岡崎にもたらさせたことは『三河物語』にも記されている。三方ヶ原の戦いで家康が死んだと伝えられ、浜松城でも混乱したため、家康の死は虚報と伝えたが収まらず、坊主頭の首を仕立て「信玄の首を取った」と嘘をつき、収めたという逸話もある。 #どうする家康
本多正信の知恵として伊賀者と甲賀者を使って戦況を打破しているけど、記録には両者とも「自らの手柄」として記している。このあたり、歴史の扱いの難しいところなんだよね。「我田引水」になってしまうのは、今回のようなことがあったからでは?という描き方に妙に納得してしまう。 #どうする家康
……頼朝様平家などの天下の敵を征伐し、関東に幕府を開いて以来、朝廷での位も(上がり)、領地も(増え)、そのご恩は山よりも高く、海よりも深い。……源氏三代の将軍の残した鎌倉をお守りなさい。但し、朝廷に付きたいと思う者は、申し出なさい。 北条政子の大演説。(『吾妻鏡』) #鎌倉殿の13人
ヤフオクをたまに覗くと面白い発見がある。利休忌が近くなったので「利休像」が出品されているのだが、利休像といいながら何点か「松尾芭蕉像」が混じっている。構図は似ているが持ち物が違ったり、箱書に「ばせを像」としてあるが草書で読めなかったりと、ちょっとした間違い探しのようだ。
慈円(演:山寺宏一)。九条兼実(演:田中直樹)の弟で、幼いときに青蓮院に入り、仁安2(1167)年天台座主・明雲について受戒。建久3(1192)年には頼朝と兼実の推挙により38歳の若さで天台座主となると、以後四度天台座主に就任。建仁3(1203)年には大僧正に任ぜられている。『愚管抄』の著者。 #鎌倉殿の13人
頼朝の浮気癖は亀の前事件だけではなく、ほんの数ヶ月前にも一悶着起こしている。頼朝が異母兄(義平)の未亡人である祥寿姫に密かに艶書を送ったが無視をされたので、姫の父・新田義重へ申し入れたものの、北条政子を恐れた義重は他家へ再嫁させてしまった。頼朝は以後、新田を冷遇した。#鎌倉殿の13人
御所に出向いた和田義盛の帰りが遅いことに息子達が「嵌められた」と思い込み挙兵してしまう。この流れは『吾妻鏡』の仁田忠常の最期に似ている。比企追討の褒美を受けに北条時政邸を訪れた忠常だったが、帰りが遅く、時政追討の謀略が露見したと弟達が勘違いし挙兵してしまう。 #鎌倉殿の13人
富士川の戦いは近年、平維盛率いる平氏の軍勢と武田信義率いる甲斐源氏の軍勢との戦いであって、頼朝の軍勢は直接的に戦っていないと考えられている。まあ、それ以前に士気も低下、逃亡兵も多かった平氏方は甲斐源氏の軍勢とも戦わず、水鳥の羽音を敵襲と誤認し撤退してしまう。 #鎌倉殿の13人
家康が掛川城を攻めようとしていた頃、木下藤吉郎に似た瀬戸方久が城代を務める気賀の城(堀川城)は酒井忠次に攻め立てられ、城兵はおろか民も皆殺しの目にあっていた。 #おんな城主直虎 #どうする家康
さぁ、これから次々ゴールする選手たち。この箱根駅伝において、最優秀選手には「金栗四三杯」が授与される。これは夏季オリンピック ストックホルム大会のマラソン国内予選会で、優勝した金栗四三に贈られたカップの複製であり、第80回大会から贈られている。 #いだてん #箱根駅伝
平賀朝雅が催した酒宴の席上、北条政範が急死する。朝雅はこれを畠山重保(重忠嫡男)のしわざであるとりくに讒言し、重保は朝雅の怪しい行動を北条義時に告げる。『吾妻鏡』ではこの席で二人が口論したとされ、その後に朝雅が重保を牧の方(りく)に讒言しているが、政範の死に繋げたか! #鎌倉殿の13人
源頼茂の謀反で内裏の仁壽殿にかけられた火は燃え広がり、宜陽殿や校書殿を焼き、塗籠に入れられた累代の御物は灰燼に帰した(『百錬抄』)。(正月18日に東寺の長者が供養する)仁寿殿の観音像や応神天皇の御輿、大嘗祭や即位式の蔵人の御装束、霊物などが灰燼(かいじん)に帰した。 #鎌倉殿の13人
耳引き。紐を大きな輪にして、互いの耳にかけて引っ張り合う遊び。引きあって耳から外れたほうが負け。同様の遊びに首引きや腰引きもあった。『鳥獣人物戯画』丙巻にその様子が描かれている。 #鎌倉殿の13人
武衛は兵衛府の唐名。源頼朝が任じられていたのは右兵衛権佐(のち解任)のため、「佐殿」と呼ばれている。『吾妻鏡』の中では唐名より「武衛」と表記されている。右兵衛佐であれば唐名は「武衛将軍」。のちに斯波氏の宗家は当主が代々「左兵衛督(佐)」となるため「武衛家」と呼ばれる。#鎌倉殿の13人
「…ソノ介八郎ヲ梶原景時シテウタセタル事。…雙六ウチテ。サリゲナシニテ盤ヲコヘテ。ヤガテ頸ヲカイキリテモテキタリケル。…」 (『愚管抄』慈円 著) 双六の相手をしていた景時が何気なく広常の首を掻き切り、頼朝の許へ持ってきた、とある。場所は「営中」(将軍御座所)とされる。 #鎌倉殿の13人
戦国大河の定番、金平糖。ポルトガル語の砂糖菓子を意味するconfeito(コンフェイト)が由来。諸説あるが、日本には天文15(1546)年に渡来したとされる。永禄12(1569)年宣教師のルイス・フロイスが二条城で織田信長に謁見した時、フラスコに入った金平糖が献上されたという記録がある。 #どうする家康
源義朝と常盤の子、醍醐禅師全成。以仁王の令旨を聞きつけ、醍醐寺を抜け出し東国に下る。その途上佐々木兄弟と邂逅し、石橋山の敗戦後であったため相模国高座郡渋谷荘に匿われる。治承4年10月1日に下総国鷺沼の宿所で頼朝と対面した。このあと駿河国阿野荘を与えられ阿野全成を称する。#鎌倉殿の13人