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源義高逃亡の際に、その身代わりとなった側近の海野幸氏は捕らえられ、義高亡き後は頼朝に御家人として仕えている。幸氏(海野小太郎)は弓の名手で、度々神事や行事の射手として『吾妻鏡』に登場する。(『吾妻鏡』嘉禎三年七月十九日条に「幕下将軍御代為八人射手之内」と紹介されている) #鎌倉殿の13人
302
五徳姫。織田信長の長女として永禄2(1559)年生まれる。永禄6(1563)年に家康の長男 信康との間に婚約がなり、永禄10年に9歳で嫁ぐ(信康も同じ歳)。今は永禄13年(元亀元[1570]年)なので互いに12歳。まんじゅうで喧嘩しても仕方ないか。因みに五徳姫、案外長生きするので驚く(78歳)。
#どうする家康
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信康の不行状は様々伝わるが、その中の一つが僧侶殺害。ある日、信康が鷹狩へゆく道すがら僧侶と出会ってしまった。狩猟の際、僧侶に会うと不猟となるとされるので、これに憤慨して僧侶を捕らえると、首に縄をかけて縊り殺してしまった(『松平記』)。のちにこれについては謝罪している。
#どうする家康
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幸せの験なりける青い鳥寒夜に凍りてひと啼きもせず
#凍結祭りだし辞世の句詠もうぜ
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陳和卿に「前世は医王山の長老であった」と告げられたことに、実朝が「それは6年前の夢と合致する」と驚いた話(『吾妻鏡』建保四年六月十五日条)。実朝の「特殊能力」は何度となく『吾妻鏡』に記されている。例えば、馬鳴大明神から合戦(和田合戦)があることを夢に託宣されている。
#鎌倉殿の13人
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今日の #舞いあがれ 。笠やんが何をしていたか、加工の簡単な図解です。使っていたのはフライス盤という金属を切削する機械。見た目には地味な作業ですが、見る人が見るといろいろと「面倒な」作業をしていましたね。(そういうところは説明するのも結構難しいのですが、細かいところはおいおい。) twitter.com/raizou5th/stat…
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押し込まれている関口一家に甲斐甲斐しく世話を焼くお田鶴は、於大の方が元康に「今川領を切り取りなされ。まずは」と言っていた上ノ郷城の城主・鵜殿長照の妹なのよね。これが長照が「仕込んだ」策なのね。
#どうする家康
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家康が瀬名に断りなくお万との間に子をなしてしまう。瀬名が怒るのは、己の知らぬところで家康が子をなすこと。そんなことをされては、正妻としての立場、嫡子である信康の立場がないと。以前、オーディションをして側室を選んだ描写が、「家康のお手付き」で生きてくる。
#どうする家康
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一味神水。一揆に参加する者が集まり、誓約を違えたら神罰を被ってもかまわぬ旨を起請文に記し、ここに皆が署名をする。そしてこの起請文を焼いた灰を、神水もしくは御神酒に混ぜて誓った者が回し飲みをする。同じ神水を口にすること(共飲共食)で、神を介して一味が団結を誓った。
#鎌倉殿の13人
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小日向文世、角野卓造、松重豊が「ボクらの時代」で仕事、家族、プライベートを語る(映画ナタリー)
これは絶対にみたい! news.yahoo.co.jp/articles/490e0…
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シェークスピアの全編を翻訳する。これを日本で明治(から昭和初期)に行ったのは坪内逍遥。明治42年から昭和8年までかけて『沙翁全集』として全40巻を刊行した。
#朝ドラらんまん
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源仲章は京においては後鳥羽上皇の近臣として勤める傍ら、鎌倉の御家人としての地位も得ていた。源実朝が将軍になると、坂東に学問を教授できる者がないため、実朝の侍読(学問を教える学者)として鎌倉に下った。藤原定家は仲章を「才名の誉はないが、百家九流に通ず」と評している。
#鎌倉殿の13人
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黄瀬川の陣で頼朝は義経と対面するが、この様子は後三年の役で源義家が清原武衡・家衡に苦戦していると聞きつけた弟の義光が、左兵衛尉を辞して陸奥国に下り兄と共に戦ったことになぞらえている。対面のときにオーバーに義経の手を取って涙を流したのも、義家・義光の故事の再現。#鎌倉殿の13人
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お田鶴は「良かれ」と思ってなすことが裏目に出てしまうのね。関口夫婦と瀬名親子の駿府脱出のときも、夫・飯尾連龍の今川と松平の懸け橋になりたいという願いも、今川家に報告することで「上手くいく」とまっすぐに思っちゃうんだよね。この真っ直ぐさがのちの悲劇を生むことにもなる。
#どうする家康
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病の床にある頼家の後継者選び。
・頼家の息子・一幡は6歳、外祖父は比企能員。
・頼家の息子・善哉は4歳、乳母夫は三浦義村。
・頼家の弟・千幡は12歳、北条政子の子であり、その妹(実衣)が乳母を務める。
比企と北条の綱引きで、両者綱切れて共倒れとなれば、三浦にワンチャンあり。
#鎌倉殿の13人
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八田知家。源義朝の落胤とも噂される。頼朝の石橋山の挙兵の頃から従い、平氏追討にも参加しているのだが、登場は今回が初。奥州合戦では千葉常胤と並んで、東海道大将軍の役目を任された。関東の名族、小田氏の始祖である(と、いうことは「戦国最弱」ともいわれる小田氏治の祖先!)
#鎌倉殿の13人
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この話から三浦大介(義明)は長命の代名詞となり、百六つまで生きたといわれるようになる。落語『厄払い』の中に出てくる厄払いの祭文では、「鶴は千年、亀は万年、東方朔は八千歳、浦島太郎は三千年、三浦の大助百六ツ」と長生きの代表として登場する。#鎌倉殿の13人
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「戦とは勝ってからするもの。」この言葉、家康はきっと肝に命じているよね。信玄からの学びが半端ではない。三方ヶ原の戦いがあったからこそ、その後の戦の「上手さ」に繋がってゆくのね。ただでは転ばぬ家康。
#どうする家康
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公暁が鎌倉に戻ってきた時点で、頼朝の血を引いた男子の子孫は、頼朝の三男・貞暁(32歳)、四男・実朝(26歳)、 頼家の息子・公暁(18歳)、栄実(生死については諸説あり)、禅暁(15〜17歳)。実朝以外は皆、仏門に入っているが、還俗という手もあるので、実朝の後継がいない訳ではない。
#鎌倉殿の13人
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「オンタラクソワカ」
大姫が唱えたのは虚空蔵菩薩の真言「オン バザラ アラタン ノウ オンタラク ソワカ」の終わりの部分。鎌倉時代の十王信仰からその本地とされる仏をそれぞれの年忌に当てはめ信仰した。虚空蔵菩薩は三十三回忌にあたる。みないなくなった。皆の菩提を弔うはずだが。
#鎌倉殿の13人
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殺生石は玉藻前(九尾狐)が逃げた那須の地で三浦介義明、千葉介常胤、上総介広常と陰陽師・安部泰成により討伐されて石と化した。だが毒を発して人や動物を殺めたため殺生石と呼ばれた。至徳2(1385)年玄翁和尚によって打ち砕かれて各地に飛散したのだから、割れたところで九尾狐は現れないだろう。 twitter.com/Lily0727K/stat…
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水野信元は、美濃岩村城主の秋山信友に兵糧を売り渡したことで武田への内通を疑われた。これは佐久間信盛の密告とされる。信元は養子の元茂と共に岡崎に逃走。しかし甥の家康は信長の命を受け、信元親子を自刃に追い込む(もしくは石川数正と平岩親吉を派遣し、大樹寺にて討ち果たした)。
#どうする家康
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信長の、遠江を抑えるなら見付ではなく引間に城を作れ、は道理なんだよね。今後、武田家との対立を睨んだとき、見付では天竜川を背に戦うことになるけど、引間なら武田が攻めてきたとき、天竜川を挟んで対峙することができる。どこに対立する相手がいるのか考えなければならない。
#どうする家康
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お葉。公式でも「西郡局(にしごおりのつぼね)として知られる」としている。出自は、鵜殿長照の弟で柏原鵜殿家を継いだ鵜殿長忠の養女(実父は長忠の家臣、加藤義広とされる)。長忠は長照が死亡した前後に松平家康に従っている。お葉の名は西郡局の法名「蓮葉院日浄」から採ったのかな。
#どうする家康
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於亀。榊原小平太、のちの康政。祖父 清長、父 長政は共に松平家に仕えている。永禄3(1560)年桶狭間の戦いで、大高城を脱し、松平家の菩提寺である三河国の大樹寺に入った元康に、小平太ははじめて謁見した。小平太は学問を修めるため、幼い頃から大樹寺に預けられていたという。
#どうする家康