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先日ドッジボールをしたときに「得意グループ」と「苦手グループ」に分けて行った。分けた基準は子どもたちの自己申告である。すると、双方のグループで満足度が高かったように見えた。男女で分けることは多いかもしれないが、ドッジボールの技能に性差はないはずだ。
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10代の後半という早い段階で学生を理系と文系に分けてしまうことのリスクとして「自分は文系だから理系はわからん」となってしまうことがある。理系か文系【だけ】でやっていけるほど社会はわかりやすくなってない。どちらにも関心は持つべきだし、ほとんどの人にとって【学問は広く浅く】が望ましい
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僕の学級経営のコツは「自分がご機嫌である」ということに尽きる。だって担任の先生が「不機嫌」だと、子どもたちだって嫌でしょ。「人が不機嫌なときにする選択はほとんど間違える」という言葉も大好き。つまりは、そういうことなんだよね。でも、学校の先生って自分に厳しいから、割と不機嫌なんだ。
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「自分に割り振られた仕事をしっかりとした上で、毎日定時退勤をしています」と発言すると「組織にはグレーゾーンの仕事があって、お前が帰ったあとに、それをしている人がいるんだよ」というクソリプが飛んでくるのですが、そういう「がんばり屋」のせいで業務が一向に減らないのではないでしょうか
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「どうして勉強するの?」という質問に対して「子どもでも納得できる答え」を用意するのは良くない、という考えを知って、教育への見え方が変わった。教育とは「それを学ぶまでその価値には気づけない」という構造を持っている。間違っても「いい大学へ行くためよ」なんて学校の先生は言ってはいけない
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保護者「私は、この子を家庭でしっかりと見ることができています。なのに、教育でお金をもらっている先生が私と同じくらいに見れないのはおかしいと思います!」
先生「えっと、お母さん、教室にはあなたのお子さん以外に39人の子どもたちがいましてね‥」
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「叱らない」先生になるためには必要な素地がある。それは子どもたちに「好かれている」ことである。なぜなら、子どもは「自分が好きな先生」の前で「良くないこと」をしたくないものだからだ。自然と「叱る」場面は少なくなる。ちなみに、子どもたちに好かれる一番大切なことは「丁寧に関わる」だ。
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「子どもができるようになるまで指導を諦めない」
これは先生として素晴らしい姿勢に聞こえるけど、実は本当に恐ろしいことだと思うし、それは子どものためではなくて教員の自己満足のため
やはり発達段階的にどうしてもできないことあるし、できたとしても心に大きな負担を強いるなら、それは教育虐待
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僕は子どもを「あだ名」では決して呼ばない。それは「あだ名で呼ぶ子」と「呼ばれない子」の線引きが持つ意味を知っているからだ。そもそも先生が子どもを「あだ名で呼ぶ」ということには「人権侵害である」という認識もある。その辺の感覚は鈍感になりたくない。
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小学校教員のみなさま
【5分以上の生活指導はロジカル・ハラスメント】ですよ
「伝えたいことは30秒あれば伝えられる」とは過去の偉大なる教育実践家である斎藤喜博の言葉です。
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学校の先生は「練習してから本番」という感覚が強すぎて、子どもたちは「練習疲れ」からの「練習嫌い」になっていると感じる。子どもたちは「本番が大好き」である。僕はむしろ「本番を繰り返す中で練習していく」という授業を意識している。「一番価値ある本番」が「一度きり」なんてもったいない!
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フィンランドみたいに「塾なし、私立なし」にする。
高校までを義務教育にして地域の高校へ選抜なしで進学させる。
大学を高校のような位置づけにして、大学院を「真の高等教育の場」にする
新卒一括採用文化を無くして、就職によって人生が決定してしまうポイントを「遅らせ、かつ増やす」
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競争によって子どもの学力が上がると思っている人は大事なことを忘れている。それは、ごくごく一部の「勝ち組」を作るために、多くの「負け組」を作っているということだ。これをエリート教育と呼ばずしてなんと呼ぼう。誰かの犠牲の上に成り立つシステムは公教育には適さないと思う。
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「教育実践」をできていない先生が多い。そういう先生は「先生ごっこ」をしてる。「先生ってこんな感じだよね」「隣のクラスはこんな感じだよね」「私の子供の頃はこんな授業だったよね」。これらは全部「おままごと」の延長線上である。「自分の言葉で語れるか」。教育実践はここに尽きると思う。
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「良くないことは友達同士で注意しよう」というのはよくある指導だけど、「相手の気分を害することの無い注意」というのは非常に高度なスキルであり、それは大人でもできない人が多い。結局「相手に良くなってもらいたい」よりも「私が注意したい」思いが先行して、相手を責め立てるという構図になる
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粘土はコネコネしてるだけで気持ちいいですよね。何かを作らなくてもいい。ただコネコネしてるだけでいい。そんな時間をもっと作りたい。
でも学校には「評価圧力」があって、例えば数少ない図画工作の時間で評価するためには「作品」を作らせないといけない。すべての活動が評価するための素材になる
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DaiGoさんの件。みなさんの反論もセットで、人権という意識を高めるという意味では教材になったと思う。学校での人権教育はあくまで「そういうことは言わない方がいい」程度になってしまいがちで「言ったらどうなるか」までは想像が及びにくい。だから実際の若者の会話ではあのレベルの言動は割とある
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これは何度でも言うけども、「教育目標」という言葉自体が、工場における「生産目標」からの造語である。「子ども全員が達成できるような目標」という考え方自体が、かなりの「工場的な」考えなのだ。
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「一致団結」とか「One for all , All for one」とかを目標にしちゃってるクラスの方が、いじめは多い。だって、その目標を阻害しているマイノリティへの圧力が強まるのだから。たまたま、同じ年度に生まれた子どもたちが「ひとつ」になんてなれないし、無理矢理にしたら、歪みが生じるのである。
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妻の学校のいじめ案件について話を聞いた。この手の話を聞くと毎回感じるのが、担任の初動が遅すぎるということだ。いじめ行為が発現してからでは担任ができることはかなり限られてくる。その前兆の段階で動き出さないといけない。そのアンテナの感度が低い教員のクラスでは毎年イジメは発生する。
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小学校教員はかなり均質的な集団になっている。「大卒」と「非大卒」という学歴は国民を二分する。さらに教員の多くは「学校文化に順応していた過去」を持つだろう。つまり「非大卒家庭」で「学校文化に順応できない子ども」への対応はかなり意識的にする必要があるが、それは忘れられがちだ。