小学校教員として、「辛いことや苦しいことを乗り越えないと人は強くなれない」という考え方はしたくない。そうやって学校は、何人もの子どもの心を追い詰めてきたじゃないか。家庭が不安定なこんな時代だからこそ、教室が子どもたちの【安全基地】にならないといけない。僕の発信はすべてそこに繋がる
粘土はコネコネしてるだけで気持ちいいですよね。何かを作らなくてもいい。ただコネコネしてるだけでいい。そんな時間をもっと作りたい。 でも学校には「評価圧力」があって、例えば数少ない図画工作の時間で評価するためには「作品」を作らせないといけない。すべての活動が評価するための素材になる
「どうして勉強するの?」という質問に対して「子どもでも納得できる答え」を用意するのは良くない、という考えを知って、教育への見え方が変わった。教育とは「それを学ぶまでその価値には気づけない」という構造を持っている。間違っても「いい大学へ行くためよ」なんて学校の先生は言ってはいけない
学校の先生は「練習してから本番」という感覚が強すぎて、子どもたちは「練習疲れ」からの「練習嫌い」になっていると感じる。子どもたちは「本番が大好き」である。僕はむしろ「本番を繰り返す中で練習していく」という授業を意識している。「一番価値ある本番」が「一度きり」なんてもったいない!
「注意ができない保護者」は増えたと感じる。同時に「他人の子供には不干渉」というマナーも社会に浸透した。結果的に、その差額をすべて学校が払う構造になっている。それを「教育ニーズの増大」と言い換えてもいい。学校の問題を学校だけで語っても答えなんてでないのだ。
学力低下が学校教育の質の低下だと思ってるなら、そんな「簡単な話」ではない。その視点に縛られたら「学力が高い学校の教師の質は総じて高い」となる。でも、そんなことは絶対にないはずだ。 子どもの学力に強い影響を与えているのは「家庭」である。大阪市の教育行政の方々は教育社会学を学ぼう。
10代の後半という早い段階で学生を理系と文系に分けてしまうことのリスクとして「自分は文系だから理系はわからん」となってしまうことがある。理系か文系【だけ】でやっていけるほど社会はわかりやすくなってない。どちらにも関心は持つべきだし、ほとんどの人にとって【学問は広く浅く】が望ましい
小学校教員のみなさま 【5分以上の生活指導はロジカル・ハラスメント】ですよ 「伝えたいことは30秒あれば伝えられる」とは過去の偉大なる教育実践家である斎藤喜博の言葉です。
「子どもができるようになるまで指導を諦めない」 これは先生として素晴らしい姿勢に聞こえるけど、実は本当に恐ろしいことだと思うし、それは子どものためではなくて教員の自己満足のため やはり発達段階的にどうしてもできないことあるし、できたとしても心に大きな負担を強いるなら、それは教育虐待
「もはや教育現場の実情に適合していないのではないか」と異例の指摘をした。教員の働き方改革や給与体系の見直しの必要性にも言及した。」 これが、教育公務員の働き方改革に一石を投じる動きになるといいな。 asahi.com/articles/ASPB1…
フィンランドみたいに「塾なし、私立なし」にする。 高校までを義務教育にして地域の高校へ選抜なしで進学させる。 大学を高校のような位置づけにして、大学院を「真の高等教育の場」にする 新卒一括採用文化を無くして、就職によって人生が決定してしまうポイントを「遅らせ、かつ増やす」
「一致団結」とか「One for all , All for one」とかを目標にしちゃってるクラスの方が、いじめは多い。だって、その目標を阻害しているマイノリティへの圧力が強まるのだから。たまたま、同じ年度に生まれた子どもたちが「ひとつ」になんてなれないし、無理矢理にしたら、歪みが生じるのである。
「私はちゃんとしていたのに、あの子は不登校になった」という先生 不登校要因は ①学力不振 ②生活指導 ③いじめ放置 が考えられるが、③以外は、先生が「ちゃんと指導」したら起こりうる。学校の「当たり前」を「ちゃんと」すること、子どもは「ちゃんと」追い詰められるのだ。もう少し詳しく書こう
競争によって子どもの学力が上がると思っている人は大事なことを忘れている。それは、ごくごく一部の「勝ち組」を作るために、多くの「負け組」を作っているということだ。これをエリート教育と呼ばずしてなんと呼ぼう。誰かの犠牲の上に成り立つシステムは公教育には適さないと思う。
妻の学校のいじめ案件について話を聞いた。この手の話を聞くと毎回感じるのが、担任の初動が遅すぎるということだ。いじめ行為が発現してからでは担任ができることはかなり限られてくる。その前兆の段階で動き出さないといけない。そのアンテナの感度が低い教員のクラスでは毎年イジメは発生する。
DaiGoさんの件。みなさんの反論もセットで、人権という意識を高めるという意味では教材になったと思う。学校での人権教育はあくまで「そういうことは言わない方がいい」程度になってしまいがちで「言ったらどうなるか」までは想像が及びにくい。だから実際の若者の会話ではあのレベルの言動は割とある
「良くないことは友達同士で注意しよう」というのはよくある指導だけど、「相手の気分を害することの無い注意」というのは非常に高度なスキルであり、それは大人でもできない人が多い。結局「相手に良くなってもらいたい」よりも「私が注意したい」思いが先行して、相手を責め立てるという構図になる
小学校教員はかなり均質的な集団になっている。「大卒」と「非大卒」という学歴は国民を二分する。さらに教員の多くは「学校文化に順応していた過去」を持つだろう。つまり「非大卒家庭」で「学校文化に順応できない子ども」への対応はかなり意識的にする必要があるが、それは忘れられがちだ。
これは何度でも言うけども、「教育目標」という言葉自体が、工場における「生産目標」からの造語である。「子ども全員が達成できるような目標」という考え方自体が、かなりの「工場的な」考えなのだ。
教職員共済にある【教職員賠償責任補償】より 教職員個人が負担するのは可哀想だということで【校長教頭で折半して払った】までは管理職本人から直接聞いたことがある kyousyokuin.or.jp/enjoy/column/h…
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