mc54006(@bt71_3865)さんの人気ツイート(古い順)

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かつての国鉄バスの運転席。大事なことが書いてありますね。
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新宿2355発441M普通上諏訪行きの乗車が始まり座席の争奪戦が繰り広げられます。一部の乗客は狭いクロスシートには目もくれず早々に床に新聞紙を広げて座り込む(後で横になる)こともしばしば。自分も夜行では戸袋のロングシートに陣取ることが多かった。1986(昭和61)年8月9日。
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鳥羽を出発する奈良行き普通列車。キハ35 89+キハ58 573(天イセ)。後方にはズラリと近鉄特急が並びますが国鉄のほうは何とも言えない雰囲気。キハ58には冷房装置がありますが電源がないので非冷房状態。1985(昭和60)年8月。
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1966(昭和41)年川車製クハ165-129ほか11連(静シス)。1979年9月に浜松工で前面強化。113系1500番台と同じく前灯位置が高いですが関連性は無いのでしょうね。長年大垣持ちだった東海のK編成は1989年に静岡移管。移管後しばらくして幌を上り向きに付けるように変更。1989(平成元)年12月30日、真鶴。
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クハ153-552(名カキ)。153系のMM´-156,Tc-552・553は準急伊那増発のため飯田線沿線の有志が利用債を負担したといわれ、この4輛を宮原に配置して捻出した80系で伊那を増発しました。この4輛は晩年、伊那を担当する大垣に転属。伊那には使われなかったはずですが、縁のようなものを感じます。’83/1/4
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今から30年前、JR奈良駅にこんな駅名標がありました。おそらく既存のものに手を加えたものだと思うのですが、なかなかのアイデアと思ったものです。しかし短期間で姿を消してしまったようです。その後、奈良駅は全てが変わってしまいました。ああ。1989(平成元)年4月4日。
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1962(昭和37)年日車東京製クハ111-1(静シス)。111系の第一陣。新製配置は大船。1位側窓拭器は改造によるもので静岡・名古屋局の同形の多くが同様でした。デフロスタは電熱線式で原形。窓下通風口は埋め込み済み。現在保存されている状態とほぼ同じ形態。1984(昭和59)年8月20日、静岡。
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1962(昭和37)年日車東京製クハ111-6(四カマ)ほか4連。国鉄民営化を前に全滅かと思われた111系は一部が四国に渡り驚きました。内外ともに手を入れられていましたが、原形はあまり崩れていませんでした。その後あちこち改造されます。東海道時代とは編成が逆向き。1989(昭和64)年1月2日、岡山。
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1968(昭和43)年帝車製クモハ103-148(北マト)。武蔵野線を待っていたらエメラルドグリーンの車輛が来てびっくり。撮影時点では貸出扱いだったようです。当日のメモに所属標記を書いておらず、既に西トタ標記だったのか? JRRの履歴表では5月に転属と記載。1985(昭和60)年2月11日、新松戸。
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新幹線500系が東京に来ていた頃のスナップ。1998(平成10)年。
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私の世代、新幹線といえばこれでした。手前に山手線205系に被られてますが、まあいっか(笑) 500系と同じ日の撮影。1998(平成10)年。 500系の写真はたくさんの方にご覧いただきありがとうございました。
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朝の片町線長尾駅。1985(昭和60)年3月23日撮影。左:クハ103-126(大ヨト、1969年汽車製)右:キハ58 183(天カメ、1962年新潟製)。クハ103は新製配置品川で昔の山手線。森ノ宮を経て淀川に。キハ58は宮原、梅小路、米子等を経て亀山に。当時片町線は長尾~木津間が非電化で気動車での運転でした。
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1968(昭和43)年川車製クハ103-637(北マト)ほか10連。先頭の本車は撮影時点で松戸生え抜きでしたがご覧の通り朱色に塗色変更されており、この直後に豊田に移りました。この頃は103系の転配が多く、混色編成も多くみられました。1985(昭和60)年3月13日、新松戸。
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1961(昭和36)年富士重工製キハ57 10(名ナコ)。キハ57は信越線用で一族全車が長野に新製配置。後年名古屋局に移るものも多く本車もその1輛。初期製造で前灯の位置をはじめ前面のディテールが後の製造車とは少し違います。703Dのりくら3号で富山を目指します。1985(昭和60)年3月24日、名古屋。
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左:1978年日車製クハ103-486(北イケ)、右:1979年東急製クハ103-772(南シナ)。山手線の日常風景。205系化が進捗していましたが、まだまだ103系が多数派の頃。486は翌年津田沼へ、772は撮影直後に川越へ転じたようです。1985(昭和60)年8月25日、東京。
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1974(昭和49)年東急製クハ103-305(北イケ)。ATC準備車として新製された初期グループ(発注予算では第一陣)。いつでも撮れると思っていた赤羽線のカナリヤ色の103系は、埼京線開業の準備が進む中、ウグイス色への変更が進んでいました。いや済んでいたのか。 1985(昭和60)年9月1日、赤羽。
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京王線調布駅のクハ2776。多摩センター方面からやってきた調布止まりの列車でしょうか。影が前面にかかってもお構いなしで撮影しています(笑) 2700系も残り少なくなった頃。ホームから見える看板なども昔の京王線らしい感じがします。1980年12月。
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左:クハ115-21(1963年日車、新カヌ)、右:クハ115-1059(1978年東急、新ナカ)。どちらも非冷房。クハ115-21のジャンパ連結器は2位側にKE58の栓納がありますが、栓受けはKE1だけ。1位側の栓受けはKE58をKE76に交換、KE1は撤去、下り向き専用に改造したようです。1988(昭和63)年3月1日、新潟。
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川越駅。一週間後には川越線が電化開業という1985(昭和60)年9月24日の撮影。 よく見れば、こじんまりした駅舎はなかなか趣があります。撮影時、もう少し構図を考えて撮っていれば…と思わないでもないのですが、これはこれでよい記録かなあ(笑)
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雨の下高井戸。1984(昭和59)年7月。
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1961(昭和36)年日立製クハ401-14(水カツ)ほかのエキスポライナー。本車はなかなか顔が拝めずにいるうち基本編成7輛化で中間に入ってしまったのですが、つくば博会期終了近くに組み替えて先頭に出て、引退の花道を飾ったかに思われました。だがしかし… 1985(昭和60)年9月15日、万博中央付近。
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つくば博が終了し401系初期車は戦列を離れ休車→廃車の道をたどることに。翌1986年、ステンレス車体の415系1500番台が運用を開始。そんなある日、友部駅で上野行き普通列車を待っていると、近づく電車を見てびっくりしました。先頭は引退したはずのクハ401-14でした。1986(昭和61)年3月31日、土浦。
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横浜線の単線区間が残りわずかになり、それも複線化工事進捗ということで、八王子行きの最後尾クハ103-776の車窓から単線区間を撮ってみたものです。工事の進捗で単線区間らしさはありませんねえ。1980年代前半の横浜線は混色編成が常態化していました。1984(昭和59)年7月15日、たぶん相原~片倉間。
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東急車輛の牽引車。私はTMSの1979年1月号でその存在を知りました。派手目の塗色で知られましたが、年代によって塗色や塗分けも変遷しているようです。写真では褪色気味ですが国電のラインカラー4色で塗分けているようにも思えますがいかがでしょうか。1982(昭和57)年10月。
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上野駅地平ホームを通りがかったら懐かしい騒音。覗いてみるとなんと気動車。上野21:24発、キロ59 504ほかの快速エレガンスこまち。すぐそばに20系客車の急行男鹿も。夜行列車はまだまだ元気でした。上野から定期列車の気動車が消えたのは1985年3月でしたか。1989(平成元)年12月29日、上野。