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たらればさんが何度も言うように、自分の好きなものをつくった人に好意や感謝を伝えるだけで、つくり手の苦労は吹っ飛び、世界の創造の輪が機嫌よく回るようになる。生活のたのしみ展の特長は、商品をつくった人が店先に立つこと。気持ちをひと言伝えるだけで、いいものがきっと世界にもっと生まれる。
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伝わったかな。こう言えばよかった。傷つけなかっただろうか。しゃべりすぎた。そんなことを気にせずいられたららくだろうけど、それを気にしない自分になっても仕方ない。それでつまり、伝えて、気にして、また伝えることをくり返す。というこれも、のちに気にするかもしれないけど、しょうがないさ。
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引っ越すたび転校するたび「今度はこういう自分になろう」と密かに誓いを立てていた。結局すぐに地が出ていつもの自分に戻っていくんだけど、ごくまれに背伸びがそのまま習慣になったりした。若い頃の理想って闇雲にあっていいんじゃないかな。じゃんじゃん願い、どんどん誓う。せっかくの新生活だし。
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「私ごときが書いていいのか?」と書く人は誰しも悩む。けど、思えば社会はみんなが「私ごときが」を乗り越えることで成立している。私ごときが、お金を預かり、手術をし、飛行機を操縦し、人を裁き、教え育てる。私ごときだからこそちゃんとやることで世界は面白くなる。ちゃんとやろう、私ごときも。
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どれだけ真剣で切実だろうと、答えを教えてください、という質問にはあんまり意味がない。答えやヒントや手がかりは、全体から自分でつかみとっていくものだ。だから、いい質問とは、どれだけ求めているテーマを相手に熱心に語ってもらうか、どれだけ突き当たった袋小路に強く共感してもらうかにある。
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若い頃に友だちといてさえ感じる孤独感にはそれこそが青春だという先人からの大きな肯定があるけれど、ある程度キャリアを積んだ中高年が日常にふと抱える疎外感にはなんだか受け皿がなくて時々途方に暮れる。いや、だからこそ年長者は自分の未来を自分で切り拓くのだろう。見るべきは畑ではなく荒野。
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まず自分がおもしろいと思うところからはじめるしかないが、それがおもしろいかどうかを決めるのは自分ではない。自分と他人が両方必要。ものづくりの仲間と出会うことは、他人の中の自分と、自分と話のできる他人に出会うこと。視点を借りる、大丈夫だと励ます、笑う。他人と自分がいれば前に進める。
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みんなが知らないことをみんなが知ってるものだと思い込んで話すくせのある同僚平野の今日の第一声は、「桑マンがツイッターはじめたじゃないですか」。いや、知らない。
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運をよくすることはできないけれど、運や縁が近づいてきたときすぐに気づけるようにする、ということなら少しはできるんじゃないかと思う。意識するときの手がかりは、たとえば、いまの自分をつくってきた運や縁を思い返すこと。そういうことは日々のあちこちにあるに決まってるんだから。
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なにかを教えるときは、教える側も間違うし、その都度揺らぐ。それを前提にしないと自分のアリバイを守るような窮屈なやり取りになってしまう。たまたま教える側と教わる側になってるだけで、ほんとは一緒に「そうか!」ということをつかみに行きたいんだよ。いつか実現するおもしろいことを目指して。
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ものをよく知っているかどうかとは別に、質問のされ方がうまい人とそうでない人がいる。ポイントは、質問する側の誰しもが持つ恥ずかしさとか焦りとか勇気を自然に尊重できるかどうか。どんな質問だろうとまず当たり前に受け止めることは、見事な言い回しで納得させるよりもずっと大事なことだと思う。
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とことん考えてもうやるしかないと十分に納得できたら、あとは自分が頼りだ。真剣に自分を頼りにしよう。よしわかったと納得できたら、頼られた方は力を発揮するものだ。逃げ道を断って選択肢を潰して最悪のことまで考えて、自分を頼りにしよう。きっとなんとかしてくれるよ、何しろ自分のことだから。
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真剣にやることが好きだ。真剣にやることが趣味だと言ってもいい。くだらないことも大切なことも雑談も学びも単純作業も暇つぶしも真剣にやればやるほどうっとりするほど面白い。終わってぐったりしながらも心底「たのしかった!」と思える真剣さを持ち続けることが自分の「現役感」なのだろうと思う。
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見栄を張るというのは強く大きく見せるわかりやすい見栄の他に「謙虚に見せる」とか「知らない振りをする」とか「普通っぽくする」というダウンサイジングの見栄もあって、それはそれで物事をややこしくする。強く言いたいことは強く言う。できていることを誇る。できればどんな見栄も張らずにいたい。
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あの人はあのときなぜああ言ったのだろう、というとき、相手はそんなに複雑なことは考えてなくて、ただたんに、目に、違う景色が映っていただけだったりする。じぶんのことでも、そういうことはある。そのとき目に何が映っていたかということが、ぜんぶの鍵だったりするんだ。
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なにかのクオリティを上げるための当たり前の方法のひとつは、じぶんがいい状態のときに、それに時間をかけること。たとえ締切間際でも、じぶんをいい状態にして、それに時間をかけること。気をつけることはたったふたつだ。じぶんをいい状態にすること。時間をつくること。
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若い頃ははみ出せとか型にはまるなとか言われてそんなこと言われてもって困ったけど、それははみ出すことを冒険みたいに捉えてたからだ。何かを夢中でやってたら勝手に「おっと!」ってはみ出すよ。真面目と誠実の滑走路を全力で走ってたら自然に離陸するからはみ出し方なんて気にしなくていいぞ若人。
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やる気にならないことを「やる気にならない」で片づけてるとずっとやる気にならない。それをもっと実際の話として把握すべきだ。つまり「取りかかる前にあれしてこれ見てという逃避のローテーションで時間を潰している」ということが「やる気にならないことの実体」だ。それを封じればいいんだよ、俺。
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照れくさいことを正直に書くと、「自分のいい文章を読みたくて書く」という気持ちが書くときのはじめの動機としてうっすらある。それは自己愛じゃなくて、最初のお客さんとして自分に期待しつつちゃんとやれよと叱咤するような感じ。何かをつくるとき自分の中に最初のお客さんがまず必要なんだと思う。
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同じ場所で同じ人と同じ時間を過ごしていると、どれだけ健全な気持ちでいても、周囲との溝や段差は自然とできていく。淀みや沈殿は自然に起こる。だから、いまの場所から移動する意味が見出せなくても、ひょいと動いて違う風景を見るくせをつけた方がいいのだと思う。新しさって、不自然なものだから。
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いい友だちって、互いに憧れ合っているのだと思う。とくに大人になってからできる友だちは、憧れや尊敬がベースにあるからこそ、用がなくても時間を割いて会って話したくなる。いい仕事ができるといい関係も広がっていくのは、そういう憧れのエンジンがいろんなことをうまく回しはじめるからだと思う。
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書くにしても教えるにしてもつくるにしても「自分ごときが…」を起点にしてしまうと誰も何もできない。溢れる情熱がその枷を吹っ飛ばす、みたいなことはまず起こらない。だから、本能よりはむしろ理性で、冷静に「自分ごときが」のスイッチを切って始めるしかない。さあ、こんな自分ごときがやるんだ。
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ながしまひろみさんの『やさしく、つよく、おもしろく。』というマンガをいちばん表している回がこの「こころを引き受けろ」なんじゃないかな。たった8コマのマンガですが、こころが動きます。単行本の装丁は名久井直子さん。Amazonでも買えます。 1101.com/yasashiku/2017…