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日本の国民性理解のために動員されたのは、ルース・ベネディクトという文化人類学者。
通常現場でのフィールドワークが必要な文化人類学だが、戦争中の敵国になど行けない。
そこで彼女は、日系人や英訳の書籍や映画、戦争で鹵獲した物を手掛かりに、日本人とは何かを解き明かし、米国中枢へ説明した。
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学校では英語、家では島独特の混ざった日本語と使い分けた結果、また見るよ(see you again)のような英語の影響が残る言葉使いだったそうだ。
現在ではほぼ消滅したが、独自の文法を持つ日本語方言の一つとして辞典に残る。
世界自然遺産・小笠原諸島は、文化も遺産だ
#にいがたさくらの小話 その6改
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八丈人との意思疎通の結果、島の人は英語ベースの言葉を母語としながらも日本語を理解可能に。
私的な場では英語ベースの言葉を、公的な場では日本語と使い分ける。その後日本語に慣れた世代が増え、日本語をベースにした言葉を私的にも使用するように。
だがその頃から米軍統治下となり英語になる。
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マラッカ海峡の海賊は減少傾向だが、まだ治安に不安がある。マラッカ海峡が通れなければロンボク海峡を通るが1600km以上も遠回りだ。
タイの一番細いところに運河を作る話もあるが、出ては消えの状態で実現には程遠い。
マラッカ海峡の重要性は千年以上変わらないのだ
#にいがたさくらの小話 その287
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戦後シアトルに戻った日系人は米国社会に完全に溶け込んだが、現在でも宇和島屋という北米最大の日本食スーパーの本店があるなど、日本との関係は深い。
ちなみに、かつてシアトル・マリナーズに在籍していた城島健司も移籍の決め手はこの宇和島屋だったそうだ。
#にいがたさくらの小話 その286
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シアトル市には日本人移民も多く移住した。直接だけでなく、ハワイから再移住するものも多く、日本人街も成立した。
中華系の移民も多く、現在でもアジア系の割合は高い。
排日移民法や1929年の世界恐慌からはシアトルでも祖国に帰る人も増え、太平洋戦争後の強制収容で日本人街が消え現在に至る。
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シアトルには、こんな言葉がある。
「グレートノーザン鉄道を父に、日本郵船を母に発展してきた」
1896年にグレートノーザン鉄道の誘致により横浜〜シアトルの定期航路を開設した日本郵船。これが当時ニューヨークへの最短経路で、サンフランシスコ経由より1日早かった。
ヨーロッパへも最短経路だ。
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外国人たちの言葉は、別のアジアの言語とごっちゃになっていたり、意味を取り違えたりそのまま定着したものもある。
ポンコツは元々マレー語のpungut(手にする)という言葉だったものが欧米人に殴るという意味に理解され、開港地で日本人に使われた結果今の意味になったそうだ。
ペケなども同様だ。
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藩主を擁護する直訴は前代未聞。幕府役人も江戸市民も庄内農民に同情的になる。仙台藩主伊達斉邦も幕府中枢に苦言を呈す程。
命令を出していた11代将軍家斉が死去すると、幕府は命令を撤回。村々では勝利の宴が繰り広げられた。
江戸期の転封撤回はこの1件だけだ。
#にいがたさくらの小話 その62改
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