ゲーム制作会社を経営しているというツイッタラーが子育てについて自論を述べていました。「世の中で生きていく能力のない劣等な子供は昔なら子供のうちに死んでしまったが、現代はそれを大事に守り育ててしまうので、育てられた劣等な子供は大人になって社会に居場所がないことに気づき絶望するのだ」
懐かしい街や建物やコミュニティが消えていくことに以前は耐え難い苦痛を感じていましたが、今は、それらはこの世界を去って別の世界に旅立ったのだと感じるようになりました。人生に限りがあることも悪いことではないと思います。ただ、人生には何か負わなければならないこともあるのではと思ってます
信じられぬと嘆くよりも人を信じて傷つくほうがいいと思います。悲しみこらえてほほえむよりも涙枯れるまで泣くほうがいいと思います。便秘よりは下痢のほうがいいとおもいます。
疲労によって体力・気力が奪われることは確かですが、心の苦しみによって体力・気力がブロックされて、いくら休んでも動けないというのが、より深刻だと思います。人は食物や睡眠によって得た物質的エネルギーによってのみ生きるのでなく、人はまた心に抱く一つ一つの希望によって生きるのだと思います
黄色いレオタードは背中のチャックがこわれたので終了しました。
お昼寝をしています
蒸し暑い日が続いています
私たちは、彼らのほうが人のためになる、自分は人を不快にし傷つけるだけで邪魔である、世の中は自分に何の用もない、だから黙っていなくなろうと思っています。人のためには何もできません。自分に与えられた時間に、自分に与えられた人間に向き合い、すべてを思い、すべてを生きることしかできません
渋谷 スペイン坂
きょうは田園都市線梶が谷駅で人身事故が発生したそうです。やはり寒くなってくると、どうしても夜に切迫した焦燥感のようなものがつきまといます。低温は死を予感させ、いずれにしても死はやがて訪れますが、むしろ自分を「まだ動く死体」だと思いつつ、そこにやはり心が動いているのをみとめます。
スパイダーマン
私は以前には自分の姿を映した写真、自分の動きを撮った動画、自分の声が入った録音に触れることで恐ろしい絶望を味わいました。映像や他人の目を媒介として、自分自身と折り合いをつける必要がありました。赤いレオタードでおまるにまたがったのもそのためです、と言ったら少し嘘になるかもしれません
さっき原宿にいきました
しかし今になってから「自分は子供のうちに死んだほうがよかった」などと考えてみても実質何の益もありません。私には生まれてきた魂があり、自分を何とか育ててきた父や母の思いが自分の心の中にあります。水槽から深海に突然投げ出された弱い一匹の魚のように周囲をきょろきょろ見回しながら泳ぐです
物が多くて整理がつかないという悩みは深いです。自分の意志で買った物を捨てることは自己否定になります。物に対する執着は、物以上の何かに対する愛や望みから派生していると思います。自分がかつて抱いた愛や希望を今になって意味のないものと断じて消し去るのは自分の心を傷つける痛みだと思います
私を含めて世の中の普通の人々は、周りの人間たちの言動をうかがって「これくらいのことを言っておけば無難だろう」という発想で物を言うものです。自分が本心から考えていることを不特定多数に向けて率直に言ってしまうような人は、変わった人と扱われ、避けられたり迫害を受けたりしやすいと思います