まず、トップの在任が長くなると細部の細部まで精通し、下手すると年数の浅い現場担当より詳しくなります。そうするとトップは、だんだん下からの―特に耳障りの悪い話を―聞かなくなります。自分の方が詳しいし上手くやれるんだ、オマエラはただ儂の言うことに黙って従えばよい、と。
そうすると、側近は「トップが聞いてくれ易い」形に情報を統制するようになります。悪い話は伏せ、いい話は成果を針小棒大に拡大し…かくしてトップにはますます耳障りのよい話しか入らなくなります。世界の全ては我が意の儘に!(笑)というやつです。
これほどトップ(と側近)の権力が強まると、ヘマしたときの反動=責任追及が大きくなりそうですが、実はここにもカラクリがあります。有体に言えば「責任だけ現場に押し付ける」なのですが、どうするかと言うと「具体にこうしろ」という命令・指示をトップや側近からは一切出しません。
現場からの意に沿わない提案に対し「本当にそうか?もっとよく考えろ!」として跳ねつけ、現場から「自発的に」トップの意に沿う提案・報告をさせるわけです。そうすると、万一失敗したときは「お前がこうしろと言ったんだろ!」と責任転嫁できるわけです(勿論、上手くいったときは手柄を総取りです)
我が社の場合、トップから「大丈夫なのか!?大丈夫なのか!?大丈夫なのか!?」と詰められます。これも酷いやり口で、NOと言えば「そんな話持ってくるな!」で、YESと言えば「失敗したらお前の責任払い」とされるわけです。かくして、権限に見合う「責任」を一切持たない、無敵の体制が完成します。
…が、こんな無茶苦茶が無限に通じるのはあくまで「内輪」だけです。内輪の論理が通用しない、外部(それも自分達より強力な)という「現実」に直面したとき、それまで糊塗され、現場に押し付けてきた無惨な現実が一気にトップに付きつけられます。
こうなると何時ものように部下を怒鳴りつけようが責任転嫁しようがどうにもなりません。「どうにかできる他の可能性」をトップの独善と側近の忖度で全て潰してしまった以上、怒鳴ろうが殴ろうが「粛清」しようが、現実は無常なまでに覆らないわけです。正にインガオホー。
こうして見てみると、長期政権末期のgdgdぶりというのは、老年になって急に劣化したというより、それまでの長年の積み重ねによって「起こるべくして起こった」「組織/現場でのフォローが限界を超え決壊した」と言えるのではないでしょうか。
ゼレンスキー大統領演説概要 ・日宇の間は9千キロ離れているが、自由を愛する気持ちの差はなく身近 ・この身近さを2月24日の開戦の日、日本が我が国にすぐ支援を表明してくれたことで実感した ・日本はアジアで初めてロシアに圧力をかけてくれた。アジアのリーダーであり、感謝する。 (続く)
〉RT 宇で苦戦中の露軍が戦闘そっちのけ(?)で「副業」に精を出していると聞いて思い出した「ナポレオン 覇道進撃」中のワンシーン。…うん、まぁそりゃそんな体たらくではgdgdになるわな。
財務省の「戦車よりジャベリンがコスパ良いし」論、論の中身より問題かもしれないは、「財務省の権限が強すぎる」点にありそう。専門分野の知見・現状より予算査定/削減での「小ワザ」が力を持ち、かつその結果生じる現場問題に財務省は責任を負えない(負わない)ことが、問題を深刻にしていると。
財務省は「国家予算の編成」「税収確保」が主たる役目の省庁なので、それ以外の「査定された事業のその後」が責任対象外なのはある意味当然で、そこは本来、個別省庁を超えた官邸・国会で政治的になんとかすべき世界ではあるかもしれません。
ただ、現実には財務省が予算編成権を握り、そのチェックを通らないと政府予算にならない以上、財務省査定のお眼鏡に叶わないと予算化できない―にも拘わらず予算化の過程で「犠牲になったもの」については財務省が責任を負えないーのでは、現場サイドは「やってられない」となるでしょう。
件の財務省プレゼン資料を読むと、「厳しい経済財政状況下でなんとかしなければ」という財務省サイドの理想と使命感は読み取れるのですが、その「自分達こそが国の柱だ」という自負と裏腹の、「その査定の結果起きることにどれ程責任を取れるのか」という点との落差には、正直ゲンナリさせられます。
現場サイドからすれば「あんたら(財務省)も現場で生じる査定結果に責任を持て」か、それが無理なら「最終責任を負うところ(総理か国会)に直接話をさせろ」となるわけで、そのどちらもダメと言われれば、それは省益保護・組織防衛&責任回避の輩として厳しい目で見られるのも仕方ないでしょう。
最近のロシア軍の体たらくを見る、旧ソ連軍時代からのミリファンの心境(恐らく)↓
#ナウシカ のバカガラスこと戦列艦といえば「ざぁこ♥ざぁこ♥装甲も武器もよわよわ♥」な「やられ役」という印象が強いですが、果たしてその実際の力ー特に本来の役割(陸兵輸送)を考えた場合ーは本当にそこまで弱かったのか、について考えてみたいと思います。
福島県についてもそうですが、何故一部の人々は特定の地名をカタカナ表記するのか。問題にすべきは「そこでかつて起こったこと」であって、場所そのものをスティグマの様にしてしまうのは、「今、そこで暮らしている」方にとっては不愉快極まりないでしょうに。 twitter.com/rUyaCVtIiRxgC9…
「報道に金銭絡むと真実が歪むから無報酬で」と自信満々に宣言する潔癖症(笑)な自称ジャーナリストさんに、ロンダリオ氏の名言を一万回朗読いただきたい。
元総理をテロで暗殺するのも、国葬反対のために焼身自殺するのも、どちらも「自分の主張を受け入れなければ暴力に訴える」点で変わらない。そんな手合いを反権力・反アベならオール無罪と言わんばかりに賛美し煽ってきた一部界隈は、それこそ「いつかきた道」とやらを後押ししている張本人ではないか。
フォロワーさんの呟きで、例の漫画に噛みついてまだ「ありえない」「女性を理解していない」と叫んでいる方々がいることを確認。実はこれ二番煎じでしてね、90年位前に既に「正しい女性の描き方を教えてやる」と息巻いていた元画家の政治家がいるんですよ。アドルフ・ヒトラーって言うんですけどね。
チョビ髭総統とその不愉快な仲間たちが、自分たちの狭ーい芸術観を基に「大ドイツ芸術展」「退廃芸術展」を開催したのは先日触れたところですが、ナチにおいてヨシとされたのは、抽象画と対照的な写実・写生的絵画(伍長殿の得意分野たる建築では新古典主義)でした。twitter.com/shirochichi070…
というわけで、正直、娯楽・芸術に「正しさ」を求めるのは無粋というだけではなく、チョビ髭の二番煎じと言う時点で実は「アップデート」ですらないのでは(笑)、と個人的には思う次第です。娯楽・芸術は楽しむもの、気に入らなければ「見なけりゃいい」だけなんですわ。
リマン防衛戦にスペツナズが投入された挙げ句壊滅したと聞いて、素人ながら「ナウシカ」で捨て石にされたトルメキア第三軍の壊滅を思い出した。
BBCのインタビュー、ゼレンスキー大統領のロシア国民への訴えが凄い。「ウクライナのために戦うことは私達にできる。ロシア国民は自分自身の生存のために(無謀な動員を図る)ロシア政府と戦うべき」。この局面でこう語れるとは、本当にとんでもない傑物ではないか。