海法 紀光(@nk12)さんの人気ツイート(リツイート順)

なろうとかの異世界物で主役が元の世界に帰りたいと思わない話、初期のテンプレとして「元の世界で孤独で報われていなかった」「死んで転生する」「女神様に、世界を救うなどの任務を与えられる」「異世界で大切な仲間を得る」という「そりゃ戻らないだろう」という動機付けが完成しています。
作者も作品も、社会に影響を受ける。一方で、影響の受け方は様々だし、それが作品の価値の全てではなく、それと関係なく作品を楽しんだ人の感想を否定するものでもない。 色々な読み解き方があってそれぞれおもしろい、というところに辿り着くまでにずいぶん時間がかかった。
一方で、民間からの突き上げによる自主規制の問題も重要ですが、これは政治では介入しにくいんですよね。政治が民間の行動に口を出すのは、それはそれで権力濫用でまずいので。 そういうのは、民間団体で対抗するのが妥当かと思います。日本漫画家協会とかですね。
娯楽は面白ければ、いかなる配慮も不要、と言った意見を見かける。 多分、その人の想定する「配慮」は、今ある作品に対する牽制なんだろうなと思う。 一方で、現状、様々な配慮(各種コード、商業的フィルタ)が存在しており、目に入る作品は、既に配慮の入ったものである、というのも考える必要はある
そうした民間団体が特定の党にあまり近づきすぎると、業界団体として動きにくくなる問題があり、特に、表現規制を気にするなら自民党からは距離を置いたほうが、批判がしやすいかなと。
作家が自分らしさを追求するのは自由と思うんですよ。変化を取り入れるもよし、自分らしさを貫くもよし。結果は自己責任で失敗しても業界自体がどうにかなるわけではない。 でも国が「日本らしさ」「日本のよさ」とかを、お題目にするとミスった時、業界全体がもってかれるので本当にヤバいんですよね
「がっこうぐらし!〜おたより〜」も、楽しんでいただけると思いますが、現在「きららファンタジア」で進行中のイベント「歩き続ける君のために」も、併せてプレイしていただくと面白いかもしれません。 大人のみーくん、ゆきも出てきますよ!
「『がっこうぐらし!』ってそういえば、どうなったの?」といったツイートも拝見しますが、本編12巻で完結、その後のみんなの人生を描いた「がっこうぐらし!~おたより~」1巻が発売中です。 amazon.co.jp/dp/B09HTZLLTM/
競争力を維持するためには、周辺の動向を分析することが必要なんですが(当たり前だ)、「日本らしさ」という言葉は、それを誤らせる魔力があるんですよね。 「日本らしさを追求すれば良くなる」と思ってしまう。でも、ある路線がうまくいってないのに、その路線をつきつめて成功するとは限らない。
もちろん、社会メッセージ軸ばっかりで、物語がつまらない場合もあり、そういう作品ばかりになってほしくない、というのはわかりますが。 ただ、物語は社会と切り離されたフィクションであるべきだ、とは思わないのです。 手塚治虫や白土三平の作品だって、そういう風には評価できない。
皆が、自分自身の意志でなく、他の人の票を前提とした「現実的な選択」をしだすと、最終的に、強い勢力がより強くなります。 それだと民意を正確に反映することからは遠ざかるわけで、「勝ち負け」や「現実的な選択」に囚われすぎず、入れたいとこに入れるのも、大切かなと。
それはそれとして、自分は成人がプライベートな場で見るエロ表現についてまで、法的規制があるのは何とかして欲しいと思っています。性器を描写できないとか、何の意味があるのかと。
Twitterでは、facebookやインスタ、マストドンの自分のidを書くのも禁止(検索よけなどでわかりにくく書いてもダメ)という新ポリシーだそうで。 流石に困るな。 twitter.com/twittersupport…
もう一つ重要なのは、読者(視聴者)の声ですね。 大きな会社が、苦情に押されて、ことなかれ主義になりがちな時、それを引き留めるのは、客の声です。 良いものに、どんどん良いと声をあげてくことは、過度の自主規制を止める役にも立つと思います。
こんばんは! 今日は、『がっこうぐらし!』のみーくんこと、直樹美紀さんのお誕生日です。皆さん、お祝いありがとうございます。 #直樹美紀 #がっこうぐらし
それを読んで、なんか裏切られた気がした。当時の自分は、ソ連やら赤狩りやらについては無知で、それでも面白かったんだから、エイリアンの侵略を共産圏の洗脳やら転向やらに読み替えるのは安直で無粋ではないか。突き詰めて言えば、俺の感動に水を差すな! という印象を得たことを覚えている。
痴漢行為は性暴力。痴漢があったと証明できない場合もあり、冤罪が発生する場合もある。 だからといって、痴漢行為が性暴力であるのは変わらない。 同じように、同意のない性行為は、性暴力です。どう証明するか、冤罪をどう防ぐかは別の話です。 twitter.com/yamadataro43/s…
constitution.jimin.jp/document/faq/ 自民党の改憲案Q&Aは、こちら。
ただ、その後、歳を食って、当時のアメリカを知り、ジャック・フィニィという人を知り、同種の侵略SFを色々読むにつけ、作品、作者の繋がり、文脈を語る時、共産圏への恐怖の影響はかなり大きく無視できないな、というのは、納得した。 それはそれで意味がある観点だ。
「個人が人権を主張する場合に、人々の社会生活に迷惑を掛けてはならないのは、当然」と言い切る自民党の権利感覚には反対します。 個人の人権が際限なく害を及ぼせないのは当たり前ですが、これでは多数派が「あいつは迷惑だ」と言えば、生きる権利さえ、一瞬で踏みつぶされてしまいます。
自分が高校くらいの時「宗教と科学の違いは批判精神」とか思ってました。そんなことはなくて宗教やってる人も様々に悩み、疑い、考え、その集積を言葉にしてきたわけで、膨大な神学や教理があるわけです。その懐疑は、科学の懐疑と必ずしも一致しませんが、だからといって軽視していいものではない。
そういう背景を取っ払って、ベトナム戦争とかしらない人から見た、物語自体の面白さ、という評価軸もあるけど、それと同時に「社会的なメッセージを述べた」ということを評価する軸もあっていい。
戦前の冒険小説とか漫画とか読んでると、面白いんですよね。作ってる人も心から面白いと思って書いていて、読者もそれを受け入れている。その上で、それは子ども達に植民地侵略を正当化する戦意高揚作品だったりします。 当時のことを責めても仕方ないとして、反省はあっていいと思うのです。
商業基準や自主規制について、私はやりすぎだろう、と感じる時が多いですが、一方で、ここが足りないという意見もある。今の基準も時代ごとに色々な人が意見を出して変わってきたわけで、これからも変わっていくでしょう。 創作が社会の一部である以上、そうした話し合いは社会への責任の内です。
作者(原作者)が一番、作品をわかってるかというと、そうでもなくて、別の方が、作品の中心をばしっと言い当てるということは本当にあることで。 そういう出会いに恵まれたのは、幸せだったな、と、「おたより」ときらファンイベントを読み返して、改めて思ったのでした。 ありがとうございます!