海法 紀光(@nk12)さんの人気ツイート(いいね順)

それはそれとして、自分は成人がプライベートな場で見るエロ表現についてまで、法的規制があるのは何とかして欲しいと思っています。性器を描写できないとか、何の意味があるのかと。
自分が高校くらいの時「宗教と科学の違いは批判精神」とか思ってました。そんなことはなくて宗教やってる人も様々に悩み、疑い、考え、その集積を言葉にしてきたわけで、膨大な神学や教理があるわけです。その懐疑は、科学の懐疑と必ずしも一致しませんが、だからといって軽視していいものではない。
スーパーマンの息子(Superman: Son of Kal-El)、エピソードが一区切りついたので、タイトルが変わって新展開( Adventures of Superman: Jon Kent)という発表があったのだけど、新展開のとこを無視して、打ち切りだ、というとこだけ広めてるサイトを幾つか確認。 スルーしてよいかと。
娯楽は面白ければ、いかなる配慮も不要、と言った意見を見かける。 多分、その人の想定する「配慮」は、今ある作品に対する牽制なんだろうなと思う。 一方で、現状、様々な配慮(各種コード、商業的フィルタ)が存在しており、目に入る作品は、既に配慮の入ったものである、というのも考える必要はある
だからといって、様々な話し合いや意思表示が無意味ということはなくて、毎回、全力で綱引きしてくことが大切なのだと思います。 表現のラインについての「議論自体を否定」してしまうのは、綱引きを降りることを意味するわけで、長期的には、損になると思うのです。
選挙というシステムで、応援してる候補の活動を追って、開票にドキドキして、その果てに落選すると、結構、精神的ダメージが大きいですよね。そのせいで、(主張内容とは別に)勝つほうに入れたくなってしまう。 実のところ、政党や候補者が勝たなくても、票が入ること自体に意味はあるのですが。
アメリカの多人種社会の多様性概念は、等質な日本にそぐわないと言う意見をみました。 社会のあり方が異なるので、そのまま移植できないところはありますが、日本の社会にもさまざまな多様性はあり、かつ、「一見、等質に見えるから」それが抑圧、差別されてる問題もあり、多様性の理解は大切だなと。
もちろん、社会メッセージ軸ばっかりで、物語がつまらない場合もあり、そういう作品ばかりになってほしくない、というのはわかりますが。 ただ、物語は社会と切り離されたフィクションであるべきだ、とは思わないのです。 手塚治虫や白土三平の作品だって、そういう風には評価できない。
競争力を維持するためには、周辺の動向を分析することが必要なんですが(当たり前だ)、「日本らしさ」という言葉は、それを誤らせる魔力があるんですよね。 「日本らしさを追求すれば良くなる」と思ってしまう。でも、ある路線がうまくいってないのに、その路線をつきつめて成功するとは限らない。
公共の福祉を公の秩序と言い換えた件、「反国家的な行動を取り締まる」ことを意図しないと言いつつ「個人が人権を主張する場合に、人々の社会生活に迷惑を掛けてはならないのは、当然のことです」と、すぐ先に書いており、「社会生活の迷惑」を取り締まれることを肯定しています。
作家が自分らしさを追求するのは自由と思うんですよ。変化を取り入れるもよし、自分らしさを貫くもよし。結果は自己責任で失敗しても業界自体がどうにかなるわけではない。 でも国が「日本らしさ」「日本のよさ」とかを、お題目にするとミスった時、業界全体がもってかれるので本当にヤバいんですよね
これだとデモもストも、出来なくなるのでは? また、たいていの「反国家的な行動」は「人々の社会生活に迷惑がかかる」と見なせる気がします。 個々人の人権と、社会生活の迷惑が対立するとき、調停するのが「公共の福祉」で、ある程度は迷惑をかけてよかったのですが、それが変わると読めます。
「『がっこうぐらし!』ってそういえば、どうなったの?」といったツイートも拝見しますが、本編12巻で完結、その後のみんなの人生を描いた「がっこうぐらし!~おたより~」1巻が発売中です。 amazon.co.jp/dp/B09HTZLLTM/
そういう背景を取っ払って、ベトナム戦争とかしらない人から見た、物語自体の面白さ、という評価軸もあるけど、それと同時に「社会的なメッセージを述べた」ということを評価する軸もあっていい。
身長5mの人型メカが、即死レーザーを撃ってくる時、どれだけ離れれば、地平線に隠れられるかを必死で計算して、移動速度と比べて逃亡計画を立て出すと、TRPGは、面白くなってくる! twitter.com/RavnicaD/statu…
戦前の冒険小説とか漫画とか読んでると、面白いんですよね。作ってる人も心から面白いと思って書いていて、読者もそれを受け入れている。その上で、それは子ども達に植民地侵略を正当化する戦意高揚作品だったりします。 当時のことを責めても仕方ないとして、反省はあっていいと思うのです。
作者(原作者)が一番、作品をわかってるかというと、そうでもなくて、別の方が、作品の中心をばしっと言い当てるということは本当にあることで。 そういう出会いに恵まれたのは、幸せだったな、と、「おたより」ときらファンイベントを読み返して、改めて思ったのでした。 ありがとうございます!
ラブコメとかエロ漫画とかで、主人公に都合のいいシチュを描いたりするわけですが「あくまでフィクションであって、現実にはこんな都合のいいことはない」というのを双方理解できてる前提でやるわけで、そこがブレないように気を遣うわけです。 壁ドンは楽しいけど現実にやったら暴力だよ、とかね。
社会構造を変えるのは、すぐに簡単にできることではないから、その難しさを指摘するのは大切なこと。 でも、それは「難しい問題を、どこからどう攻めていくか」という話であって「難しいから、差別は正しいのだ」となってはいかんよね。
皆が、自分自身の意志でなく、他の人の票を前提とした「現実的な選択」をしだすと、最終的に、強い勢力がより強くなります。 それだと民意を正確に反映することからは遠ざかるわけで、「勝ち負け」や「現実的な選択」に囚われすぎず、入れたいとこに入れるのも、大切かなと。
「個人が人権を主張する場合に、人々の社会生活に迷惑を掛けてはならないのは、当然」と言い切る自民党の権利感覚には反対します。 個人の人権が際限なく害を及ぼせないのは当たり前ですが、これでは多数派が「あいつは迷惑だ」と言えば、生きる権利さえ、一瞬で踏みつぶされてしまいます。
一方で、民間からの突き上げによる自主規制の問題も重要ですが、これは政治では介入しにくいんですよね。政治が民間の行動に口を出すのは、それはそれで権力濫用でまずいので。 そういうのは、民間団体で対抗するのが妥当かと思います。日本漫画家協会とかですね。
商業基準や自主規制について、私はやりすぎだろう、と感じる時が多いですが、一方で、ここが足りないという意見もある。今の基準も時代ごとに色々な人が意見を出して変わってきたわけで、これからも変わっていくでしょう。 創作が社会の一部である以上、そうした話し合いは社会への責任の内です。
痴漢行為は性暴力。痴漢があったと証明できない場合もあり、冤罪が発生する場合もある。 だからといって、痴漢行為が性暴力であるのは変わらない。 同じように、同意のない性行為は、性暴力です。どう証明するか、冤罪をどう防ぐかは別の話です。 twitter.com/yamadataro43/s…
自民公明が伝統的な家庭像を大切にしようとするのはいいとして、行きすぎると、先の報道みたいに同性愛を精神病扱いしたり、伝統的な家庭像に当てはまらないものを強く攻撃するんですね。ジェンダー論は女性が家庭に入って母をする以外にも色々な可能性があるという議論なんで、攻撃の対象になります。