ニュースを見たって現実を見たって女が女ってだけでクソみたいな扱い受けていて、もうあんまりクソなんで脇毛ボーボーに生やしっぱなしにして踊りまくってやる映画を上映します。そんなとき、それを「だよな」っつって一緒にボーボー&乱舞してくれる相手が横にいる。それがなんかもう、救われる。
養成所時代には兄弟のように支え合った2人が男形と女形のスターとなって、京劇の舞台で至上の愛を表現しあい、それから、女形の彼の秘めた想いは秘められたまま、男形の彼が別の女と結ばれてしまう映画を上映します。描かれるのは激動の中国史に揉まれた愛と憎との50年。彼と彼と彼女の、永く短い50年
『ミッドサマー』や『ハッチング―孵化―』や『LAMB/ラム』でさえ、予告編の字幕にこんなに不穏なフォントは使わなかった気がする。もうだめだ。 すべてが手遅れになっていく団地住み児童北欧夏休みサイキックスリラー『イノセンツ』は8/25(金)から上映します。もうだめだ。 twitter.com/innocents_movi…
もちろんその嫌な予感は現実になるわけですが、目を離している隙に子供が何をしでかすのか予測不能で"怖い"という大人の感覚と、初対面の子と友達になるのも不思議がどんどん起こるのも別に"怖くない"という子供の感覚と、どちらも同時に抱いてしまうせいで呆然とこの映画を観続けることしかできない。
ノルウェー郊外の団地で、親の目の届かないところで遊んでいた子供たちに"力"が発現してしまう映画を上映します。強まる"力"で遊びだすその子たちは通常と超常の区別がつかない年頃なのでまだ分かってないのだけど、観てるこっちは否が応でも分かっちゃう。 この映画、絶対に、まずいことになる。
ハプスブルク家最後の皇妃で美と若さの象徴である"シシィ"が自らの存在理由であるその"象徴"を失いつつある1878年の1年を、中指突き立てたり宮廷で奏でるハープがローリング・ストーンズの曲だったりと挑発的な時代考証で描く『エリザベート1878』は9/15(金)から上映します。
16歳でオーストリア皇妃になってヨーロッパ宮廷一の美貌と謳われたエリザベートが、40歳になる映画を上映します。コルセットで締めた45cmのウエストで臨む式典で今もお美しい四十なのにお美しいと男から"称賛"を受ける日々に、彼女の魂と知性がついに出した返事がこれ。ファックユーでございますわよ。
これは多分お涙頂戴のために不幸要素を集めて1人のキャラに全部盛りしたわけじゃなくて、子供の貧困率や非正規労働者の割合やひとり親世帯の比率や19歳以下の出産率の全国1位がぜんぶ沖縄県なのはそれぞれの要素がどこかで関連しているからで、きっと"彼女"はスクリーンの向こうにもこちらにもいる。
彼女の場合は17歳で子供がいて、旦那は働かないし暴力を振るうようになって、子供をおばあに預けてキャバクラで朝まで働いて、その仕事もガサ入れでなくなって、お金もなくなって、そういう風に明日という日が今日より良くなるイメージや方法が持てない、沖縄県の、コザを舞台にした映画を上映します。
難聴が不便といえばちょい不便なくらいで毎日が楽しい若者が、村長選立候補を決意したきまじめ兄貴と共に村という小さな、だけどそこに生きる者にとっては大きな場所のために支配者と闘う。…地味では?という危惧もありましょうが、ちゃんと踊るしバトるし爆ぜる仕様となっております。それはそう。
『RRR』ラーム・チャランの役者人生の転換点になった映画があると聞いて、居ても立ってもいられないので上映します。 毎日そこそこ楽しくて思考停止してたけど貧しい村は長いこと金貸しに支配されていて、ひとたびそれに気づけば捨て置けない。こうなったらヤるしかない。徹底的に選挙(ヤ)るしかない!
身につまされるのはこれが監督の実体験を元にした映画だということ。"これ"を全部くぐり抜けて海兵隊で映像記録担当になって、そして映画監督としてこの作品をつくったということ。二重三重に心を動かされます。 『インスペクション ここで生きる』9/1(金)より上映します。
母親。仲間。一番受け入れてほしい相手から、自分が自分だからという理由で受け入れてもらえない。心を、賞味期限切れの果物のように握り潰される。それでも彼は折れない。辞めない。正直なところ彼よりも先に、観ているこちらが折れそうで、それでも一緒に心で闘って物語の先を切り開いていく映画。
ゲイという理由で母に捨てられ10年間ホームレスだった青年が、海兵隊に志願する映画を上映します。訓練は初日から地獄。だけど仲間と共に耐える。ここを"自分の場所"にするため、母に認められるため。過酷さはある種の救済。 だけどこの映画が本当に始まるのはここからです。 仲間に、ゲイだとばれた―
人類がひとつ進化の過程を進んで痛覚なき異形になりつつある時代、体内に"これまでの生物には存在しなかった臓器"を次々形成する症状の男のパフォーマンスアートがアンダーグラウンドで人々を魅了する映画を上映します。彼にしかできないその演目は"臓器摘出"。あまりにもヤバすぎて変な笑い出ちゃう。
どこかの男に階段から突き落とされて、もう踊ることも声を出すこともできなくなる。だけど真っ暗の絶望の中で向かったリハビリ施設にはそれぞれ心に傷を抱えたろう者の女性たちがいて、手話を使いこなす彼女たちからこう伝えられる映画を上映します。 「あなたダンサー?私たちに教えて、踊ることを」
建物をル・コルビュジエがイメージした創建時に近づけるため国立西洋美術館が長期休館するというので、その隙に普通だったら入れない裏側やスタッフの本音を撮りまくった映画を上映します。訪れる者なき静謐に沈む絵画たちも、両腕複雑骨折したみたいになってる「考える人」も、ここでしか見れない。
"それ"が罪だというのなら、法を守れば自由にするというのなら、自由は塀の内と外のどちらにあるのか。ドイツでは1994年まで刑法で男性の同性愛が禁じられ、女性同性愛は"存在しない"ので記載もなかったそう。映画のタイトルは『大いなる自由』。8/4(金)から上映です。
何度も何度も投獄される男と、長いこと長いこと服役する男が同房になる映画を上映します。何度も投獄される男の罪状は"同性愛者であること"。長期服役囚はそれを嫌悪する。相容れない2人。だけどこの映画は、釈放で途切れ再投獄で繋がる2人の20年から目をそらさない。心が変わり魂が変わらない20年から
実際の裁判記録を基に、こう開廷する映画を上映します。 「あなたは生後15ヵ月の娘の殺害容疑で告訴されました。なぜ殺したんですか?」「わかりません。この裁判を通してそれを知りたいと思います」 そんな馬鹿な話があるかと思いますよね。だけど同じ意見でいられるでしょうか、この映画を観た後で。
"語り手"の周りに集まった人々が古代エジプトの話が聴きたい中世欧州がいい、いやモロッコだ、主人公は男だ女だと口々に言うものだから、3つの時代の3人の王子の物語が語られて、耳そばだてる私たちを古今東西の歴史と泉のように湧き出る想像力が織りなす別世界へといざなってくれる映画を上映します。
この映画自体、世間でヤバいと言われている"集団"が全然ヤバくないですよという証拠に公開したというテイになっていて、それなのに観たらマリアのメンタルが明らかにメッチャクチャにヤバくなっているという、もうどうしていいか分からないヤバみ。『オオカミの家』今夏上映。
アリ・アスターが一晩で何度も観たという触れ込みを(あの人特殊だから…)と思っていたのに2回。というのも、この"集団"は軍事政権下チリに実在したコミューンがモデル。脳内グッチャグチャになる初回に対して、おぼろげながらグチャグチャの中に"現実の溶け残り"が見えちゃう2回目は別種のヤバみが。
昔々あるところにマリアという娘と2匹の子ブタがいたけどマリアは"集団"を脱走した"悪い子"なので森の家に住んでいるけど"オオカミ"がじわりじわりと迫ってきて精神限界でイエの床も壁もマリアも万物が変容して溶け混じるしブタが途中からニンゲンな映画を上映します。吐きそう。速攻2回観ました。
その街のその建物にそれぞれに住む、仲が良好とは言えないウクライナ人とポーランド人とユダヤ人の3家族が、街がソ連に、ドイツに、再度ソ連に占領される中で強い絆で結ばれていく映画を上映します。大人たちが歴史に飲まれる度、1人の母に子が託される。彼女は守る。民族を超え、全員を我が子として。