「毒親?一人暮らしして離れればいいじゃん」「そんな会社やめて転職すればいいじゃん」って脳天直下で思っちゃう気持ちはよくわかるけど、未来のために考えて冷静に実行するという、一見すると簡単そうに見えることを出来なくさせられてしまうのが、機能不全家庭やブラック企業の猛毒たる所以でして。
フードコートで子どもたちと食事をしていたら、次男が突然トイレに行きたいって。一方の長男は食事に過集中で、ひとり親ってこういうときヤベェな〜なんて困っていたら、近くにいたママさんが「見守りますよ」と言ってくれて。本当に助かったよ。この気持ちをバトンで渡すように、私も誰かを助けたい。
長男が突然泣き出して抱きついてきたので何事かと思ったら、「死」について哲学しすぎて頭の中で収集がつかなくなり、恐ろしくてたまらなくなってしまったらしい。「死」という究極の苦悩について考え抜いた長男を褒め、「生」についての対話をしたのだが、長男曰く「生きることは死ぬこと」だそうだ。
私も同じような子どもだったが、当時はそんな恐怖心を分かち合える相手もおらず、いつも何かを考え、疑問を抱いては内に溜め込んでいたのを思い出す。自分の思惑の動きを鑑みるに、考えることを繰り返すたび、「考えるべきこと」と「考えても仕方のないこと」を分けられるようになっていくのだろうな。
変えられないものを受け入れる落ち着きを。変えられるものは変えていく勇気を。そして、ふたつのものを見分ける賢さを。――ラインホルド・ニーバー
自宅で過ごすことが増え、家庭という閉鎖的なコミュニティでの「ディスタンス」が取りづらい昨今です。 今回は「気付かれたくないときのサイレントSOS」を書きました。 この記事を必要とする人が誰ひとりとしていない状況こそが望みですが、目下の課題として認めています。 covid19-accessibility.com/todokeru/how-t…
本日はChildren Firstの勉強会へとお招きいただき、被虐待当事者として、思いの丈を伝えてまいりました。 「子ども家庭庁」という名称について、「子どもファーストなら家庭なぞセカンドでしょう」と熱弁したところ、なんと次回から勉強会の名称をも「子ども庁」に変更してくださるそうです。わーい!
正論は暴力になるね。いくら合理的だろうと、筋道を立てていようと。たとえば「死にたい」と言っているときに「悲しむ人がいるからやめなよ」と説教をされるような、そんな痛みがそこには生じる。できることなら死にたい気持ちを尊重されたいし、死にたくなるほどの苦しみに寄り添ってほしいんだよな。
虐待や被害による精神疾患や各種トラウマは治療が必要だし、それは患者側が医療に繋がってケアを受けるべきではあるけれども、じゃあ費用は親や加害者が出すのかと言ったらそうではないんです。そのあたりを政治でどうにかしようと立ち上がれる議員さんはいませんか?私でよければバックアップします。
音楽鑑賞をしていたら次男が突然「その人って鬼舞辻無惨?」と言ってきて、いや、うん、確かに鬼舞辻無惨だなこれ
次男から「ママはタトゥー入ってるけど悪い人じゃないからって、先生に言っといた。だからもう半袖で送り迎え来ても平気だよ。夏も長袖じゃ熱中症が怖いでしょ!」と言われました。一応ずっと頑張って隠してきたのですが、その優しさが嬉しいのでどうでもいいです。ありがとう次男。でも長袖で行くよ。
私は14歳の頃には非処女だったが、まだ未熟な肉体で快感を覚えたことなど一度もない。むしろ痛かったし、早く終われと思っていた。あれは「穴として性的に搾取される精神的苦痛」と「自分の存在を求められる精神的快楽」を混同させ、「私は必要とされている」という勘違いを重ねていただけに過ぎない。
性行為って相手の内臓に侵入する/されるわけで、いわば個人の境界線を物理的に侵食する行為だと思う。精神的に不安定だと心身ともにその線引きが曖昧になりやすい。若者がアディクション(=自己治療)として境界線内に侵入させている悲しい可能性を、大人が「愛」という抽象概念でボカしてはいけない。
ドネーションのために髪を伸ばしている次男、保育園等で「女の子なの?」と聞かれても平然と無視し、髪は切らないと断言する。「みんながそうやって言ってる間に、僕ちゃんは髪伸ばすだけで人を救っちゃうから。わかってもらえなくてもいいの、ヒーローってそういうもんでしょ!」と。背中がデカいぜ。
ミニ四駆のボディを塗装していたらご近所さんに「男の子ママは大変ね」と労っていただいたのだけど、恐縮ながら自分の大会用マシンを好きで塗装しているだけなんだよね。ウチの息子たちミニ四駆やってないし。声かけてくれて嬉しいけど、好意に潜む無自覚なジェンダーバイアス、実は悪意より刺さるぜ。
サンタクロースは存在するよ。日本にもパラダイス山元さんという公認サンタクロースがいらっしゃる。引くほど厳しすぎる試験を乗り越えて、グリーンランド国際サンタクロース協会に所属し、サンタクロースという職業に就くの。紛れもない事実。大事なことだから二回言うが、サンタクロースは存在する。
なぜ子どもに配慮をするのではなく、「伝統的家族観を重視する自民党内保守派」に配慮をするのか、サッパリ意味がわからない。 太郎議員@yamadataro43、はなこ議員@jimihanakoらの積み重ねてきた知見はなかったことになるのか? 子ども新組織の名称「こども家庭庁」に変更  47news.jp/7167950.html
「こども庁」は、講師として呼んでいただいた私ひとりの熱弁によって名称が変わったわけではない。その場にいた議員の皆さんが「子どものため」という第一の目的を共有できたことで、全員一致で賛成、変更になった名称だった。なのに結局、子どもファーストではなく、保守派ファーストになるなんて…。
核家族・共働き・ワンオペがマジョリティの時代に、ジェンダーロールまみれの、というか物理的に現代じゃ実現不可能とも言える伝統的家族観の在り方を重んじるってのは、どう考えても非合理的。それに、そういった思想こそが保護者を追い詰め、虐待を増やすファクターにだってなりうるのだと私は思う。
親も子どももも、家庭の付属品ではないよね。それぞれが尊重されるべき個人であり、それぞれが別の人間。違う考え方、違う気持ち、違う悩みを抱えているのが当たり前のはず。だからこそ、それぞれが外部に頼れる多数のリソースを持つこと、それが、親も子も生きやすくなる方法のひとつだと思うんだ。
伝統的家族観における家庭内って、親も子も追い詰められやすい閉ざされた構造に感じる。だからこそ家庭が開けた場所になり、親も子も外と繋がることは大切だし意味がある。それと同時に、子ども個人が家庭の外で、親にも知られない形で安全な外部機関と繋がることも必要。それをこども庁に期待してた。
だからね、家庭へのサポートは必要だよ。それはそれとして絶対になくちゃいけない支援。でも今回は子ども真ん中・子ども第一が理念の庁ということだったから、私が話をさせてもらった会で「こども庁」に決まったの。「伝統的家族観を重視する自民党内保守派」への配慮で、目的と理念がブレてどうする。
私はこの話をさせていただいたサバイバー本人ですが、「こども庁」がひらがなになったことにも、子どもが読めるようにという理由があります。家庭を憎む人は決して少なくないし、子どものいないご家庭だってある。今まさに苦しんでいる子も。「こども庁」は、そんな優しい眼差しで決まった名称でした。 twitter.com/yamadataro43/s…
子どもは社会で守り育てる存在だと思います。かつての教育改革国民会議では、教育の責任は子ども当人が50%、親25%、教師12.5%、一般社会12.5%であることを自覚させるべきと言われていたようですが、ここからも読み取れるように、国家や社会の責任を子ども当人や家庭に押し付けないでいただきたい。
こども庁はこども個人に目を向けており、庁が子どもの未来に関して責任を取ると期待ができました。しかし、伝統的家族観を重視する保守派に忖度するような庁なら、むしろ創設されないほうが安心です。もちろん家庭支援は必要なことだし大切ですが、それは子ども主体の子ども支援とは≒だと思います。