色んな人から別々に「今日はヤバい」「今日すごく死にたい」と連絡が相次いでいるので、やはり今日の不調もいつも通りみんな自身の問題ではなく、なんらかの環境要因だと思うよ。たとえば昨日の満月とか寒暖差とかね。私も今日は無理だし、ここ最近ずっと無理。なんなんだろうね。太陽かな、だるいね。
長男が突然泣き出して抱きついてきたので何事かと思ったら、「死」について哲学しすぎて頭の中で収集がつかなくなり、恐ろしくてたまらなくなってしまったらしい。「死」という究極の苦悩について考え抜いた長男を褒め、「生」についての対話をしたのだが、長男曰く「生きることは死ぬこと」だそうだ。
ドネーションのために髪を伸ばしている次男、保育園等で「女の子なの?」と聞かれても平然と無視し、髪は切らないと断言する。「みんながそうやって言ってる間に、僕ちゃんは髪伸ばすだけで人を救っちゃうから。わかってもらえなくてもいいの、ヒーローってそういうもんでしょ!」と。背中がデカいぜ。
フードコートで子どもたちと食事をしていたら、次男が突然トイレに行きたいって。一方の長男は食事に過集中で、ひとり親ってこういうときヤベェな〜なんて困っていたら、近くにいたママさんが「見守りますよ」と言ってくれて。本当に助かったよ。この気持ちをバトンで渡すように、私も誰かを助けたい。
【注意喚起】#酔えるグミ として一部で流行中の「パリピ気分」ですが、コンビニ等のお菓子売り場でも陳列されています。保護者が注意書きを見落とす恐れがありますので、販売店の方々には酒類同様の取り扱いを徹底していただきたいです。大人の責任として、子どもが口にすることを一緒に防ぎましょう。
ミニ四駆のボディを塗装していたらご近所さんに「男の子ママは大変ね」と労っていただいたのだけど、恐縮ながら自分の大会用マシンを好きで塗装しているだけなんだよね。ウチの息子たちミニ四駆やってないし。声かけてくれて嬉しいけど、好意に潜む無自覚なジェンダーバイアス、実は悪意より刺さるぜ。
次男から「ママはタトゥー入ってるけど悪い人じゃないからって、先生に言っといた。だからもう半袖で送り迎え来ても平気だよ。夏も長袖じゃ熱中症が怖いでしょ!」と言われました。一応ずっと頑張って隠してきたのですが、その優しさが嬉しいのでどうでもいいです。ありがとう次男。でも長袖で行くよ。
音楽鑑賞をしていたら次男が突然「その人って鬼舞辻無惨?」と言ってきて、いや、うん、確かに鬼舞辻無惨だなこれ
なぜ私がこうやって「あなたのせいじゃなくて環境のせい」と言い続けているかというと、多くの人々の不調タイミングが被りまくるのを常日頃から実感していて、それが私の不調タイミングとも被るから。ほぼ確実に同じタイミングで、多くの人が絶不調になるって、つまりそういうことでしょ。マジお疲れ。
みんなのつらさって、誰かの心強さにもなるよ。「自分ひとりが今日を苦しんでるわけじゃないんだな」、「こんなにたくさんの人がつらいってことは私に責任があるわけじゃないかも」ってさ、分かち合えたら支え合えるんだよ。人が人と生きていくってそういうことだよね
変えられないものを受け入れる落ち着きを。変えられるものは変えていく勇気を。そして、ふたつのものを見分ける賢さを。――ラインホルド・ニーバー
私も同じような子どもだったが、当時はそんな恐怖心を分かち合える相手もおらず、いつも何かを考え、疑問を抱いては内に溜め込んでいたのを思い出す。自分の思惑の動きを鑑みるに、考えることを繰り返すたび、「考えるべきこと」と「考えても仕方のないこと」を分けられるようになっていくのだろうな。
私はコーティングされていない「紙」や「木」が極端に苦手な感覚過敏なので、昨今増えてきた紙ストローや木のスプーン類に困っています。鉛筆で何かを書くと背筋が凍り、段ボールの解体では身の毛がよだつという。これは珍しいタイプの感覚過敏でしょうけど、私以外にもいらっしゃるはずだと思います。
「毒親?一人暮らしして離れればいいじゃん」「そんな会社やめて転職すればいいじゃん」って脳天直下で思っちゃう気持ちはよくわかるけど、未来のために考えて冷静に実行するという、一見すると簡単そうに見えることを出来なくさせられてしまうのが、機能不全家庭やブラック企業の猛毒たる所以でして。
私は14歳の頃には非処女だったが、まだ未熟な肉体で快感を覚えたことなど一度もない。むしろ痛かったし、早く終われと思っていた。あれは「穴として性的に搾取される精神的苦痛」と「自分の存在を求められる精神的快楽」を混同させ、「私は必要とされている」という勘違いを重ねていただけに過ぎない。
私はこの話をさせていただいたサバイバー本人ですが、「こども庁」がひらがなになったことにも、子どもが読めるようにという理由があります。家庭を憎む人は決して少なくないし、子どものいないご家庭だってある。今まさに苦しんでいる子も。「こども庁」は、そんな優しい眼差しで決まった名称でした。 twitter.com/yamadataro43/s…
とりあえず、「こども家庭庁」の略称は「こども庁」でお願いします。昨年末から言い続けていますが、今まさに家庭の中で苦しい思いをしている子どもたちが見聞きしたときに「頼ってみるか」と思ってもらえるような、そんな印象を持ってもらえるような呼び名であることが重要です。
こども庁の名称に関して私が黙らないのは、当事者の声を議員が受け止めたという尊いプロセスが軽視され、一部の支配者による鶴の一声で「なかったことにします」と言わんばかりに結果がひっくり返ったからです。親という支配者の一声で全てが決まってしまう虐待家庭の構造と、何が違うのでしょうか。
“「子どもは家庭でお母さんが育てるもの」「最近は学校に行かない権利を唱える子どももいるようだが、権利ばかり唱えても(よくない)。」” 途中でiPhone放ってしまった。 「子どもは家庭でお母さんが…」 こども家庭庁を選んだ政治家の意識:朝日新聞デジタル asahi.com/articles/ASPDN… #自民 #公明
署名キャンペーンを立ち上げました。来年の国会で名称が決定されてしまうまで、出来ることをやりたいです。 何卒よろしくお願いいたします。 「家庭単位じゃなく、子ども個人に目を向けてほしい!再度「こども庁」に名称変更を! #こども庁なら応援しますchng.it/SkKjB4xZcm @change_jpより
2021年3月9日、私は自民党の勉強会で「当事者の体験を票集めに使わないでほしい」「聞くだけ聞いて何もしないのは経験の搾取だ」と伝えました。その主張を重く受け止め、実際に声を反映させながらここまで行動してきてくださった議員の方々には、今も変わらず感謝しています。しかし、→
性行為って相手の内臓に侵入する/されるわけで、いわば個人の境界線を物理的に侵食する行為だと思う。精神的に不安定だと心身ともにその線引きが曖昧になりやすい。若者がアディクション(=自己治療)として境界線内に侵入させている悲しい可能性を、大人が「愛」という抽象概念でボカしてはいけない。
サンタクロースは存在するよ。日本にもパラダイス山元さんという公認サンタクロースがいらっしゃる。引くほど厳しすぎる試験を乗り越えて、グリーンランド国際サンタクロース協会に所属し、サンタクロースという職業に就くの。紛れもない事実。大事なことだから二回言うが、サンタクロースは存在する。
話が進む中で「やっぱりなかったことにするね」「わかったけど我慢してちょうだい」とでも言わんばかりに、いきなり名称がひっくり返された。私はこの、「なかったことにされた」という点に、強い憤りを覚えています。なぜならこれは、家庭内で行われていた虐待の再現、その構造そのものだからです。→
ずっと意思も存在も尊重されず、大人の都合で振り回されてきました。それでも諦めずに対話を試み続け、受け止めてくださる方が現れ、やっと声が届いた!と希望を持ったんです。それが急転、大人の都合で「やっぱり取るに足らない声でした」。政治がこれだから、虐待がなくならないのではありませんか。