「こども庁」は、講師として呼んでいただいた私ひとりの熱弁によって名称が変わったわけではない。その場にいた議員の皆さんが「子どものため」という第一の目的を共有できたことで、全員一致で賛成、変更になった名称だった。なのに結局、子どもファーストではなく、保守派ファーストになるなんて…。
なぜ子どもに配慮をするのではなく、「伝統的家族観を重視する自民党内保守派」に配慮をするのか、サッパリ意味がわからない。 太郎議員@yamadataro43、はなこ議員@jimihanakoらの積み重ねてきた知見はなかったことになるのか? 子ども新組織の名称「こども家庭庁」に変更  47news.jp/7167950.html
結局、我々当事者は「支援してもらえなくなったらヤバい」から、「支援してもらえそうな態度と言動」を心がける義務感みたいなものが常に付きまとう。つまり、支援者と被支援者の間には見えない権威勾配がある。私たちは支援を人質に取られている感覚だよ。支援者はそれを理解しておく必要があるよね。
やっぱりそういう価値観に基づいた「こども家庭庁」への名称変更じゃないか。これまで家父長制や母性神話がどれだけの保護者を追い詰めてきたか。そして危惧してきた通り、子どもの権利も軽視だ。やっぱり名前は「たかが」じゃないよ。なんらかの思いがあってつけるんだ。
私は家庭じゃない場所で居場所を得た。それこそ先のツイートをくださった高知さんや紀子さんたちの愛は、私の心を健やかに育てなおしてくれるから。やっぱり大切なのは家庭そのものではなく、自分の安全を脅かさない他者との関係性(=安心できる居場所)だと思う。親・家庭がそうなら幸運だけど、ね。
核家族・共働き・ワンオペがマジョリティの時代に、ジェンダーロールまみれの、というか物理的に現代じゃ実現不可能とも言える伝統的家族観の在り方を重んじるってのは、どう考えても非合理的。それに、そういった思想こそが保護者を追い詰め、虐待を増やすファクターにだってなりうるのだと私は思う。
こども庁はこども個人に目を向けており、庁が子どもの未来に関して責任を取ると期待ができました。しかし、伝統的家族観を重視する保守派に忖度するような庁なら、むしろ創設されないほうが安心です。もちろん家庭支援は必要なことだし大切ですが、それは子ども主体の子ども支援とは≒だと思います。
依存症業界にいるとほぼ常識になりつつある「タフラブ」。信じて見守り、待つという愛の形だ。向かう先を正し、厳しく指導することはイネイブリングと呼ばれ、かえって状況を悪化させていくファクターになる。大人たちから子どもたちへの眼差しも、これとあまり変わらない問題を孕んでいるように思う。
虐待や被害による精神疾患や各種トラウマは治療が必要だし、それは患者側が医療に繋がってケアを受けるべきではあるけれども、じゃあ費用は親や加害者が出すのかと言ったらそうではないんです。そのあたりを政治でどうにかしようと立ち上がれる議員さんはいませんか?私でよければバックアップします。
正論は暴力になるね。いくら合理的だろうと、筋道を立てていようと。たとえば「死にたい」と言っているときに「悲しむ人がいるからやめなよ」と説教をされるような、そんな痛みがそこには生じる。できることなら死にたい気持ちを尊重されたいし、死にたくなるほどの苦しみに寄り添ってほしいんだよな。
あの日の私が欲していた支援って、家庭からの逃亡支援だったけどな。結局いつも「子どもは親御さんと一緒にいるのが幸せ」的な考えに押しやられるから、誰のことも信じずに自分から逃げたし、トー横的な場所や、同じような若者のグループに行き着いたけども。そういう場所も結局は排除されていくから。
本日はChildren Firstの勉強会へとお招きいただき、被虐待当事者として、思いの丈を伝えてまいりました。 「子ども家庭庁」という名称について、「子どもファーストなら家庭なぞセカンドでしょう」と熱弁したところ、なんと次回から勉強会の名称をも「子ども庁」に変更してくださるそうです。わーい!
かつての私は自傷に頼って生き抜いていたから、今でも心身の調子が悪くなりすぎると自分を傷つけたくなったりもするんだけど。そういうときは鍼灸院へ行くことにしていてね。だって皮下が鈍く痛んで、それでいて健康的なんだもん。終わった後はスッキリしててるし、夜も割としっかり眠れる。いいよ鍼。
本日は、野田聖子大臣に【「こども家庭庁」創設に向けた要望書】、ならびに【「こども家庭庁」の名称を、「こども庁」に戻すことを強く求める緊急要望書】を提出してまいりました。 署名キャンペーンページの進捗投稿から、追って詳細をご報告いたします。
「こども庁」の名称には、子ども個々人を尊重し、社会で守り育てる思いが込められていると思います。 以下のキャンペーンに賛同をお願いします!「家庭単位じゃなく、子ども個人に目を向けてほしい!再度「こども庁」に名称変更を! #こども庁なら応援しますchng.it/YC56WHs65L @change_jp
子どもは社会で守り育てる存在だと思います。かつての教育改革国民会議では、教育の責任は子ども当人が50%、親25%、教師12.5%、一般社会12.5%であることを自覚させるべきと言われていたようですが、ここからも読み取れるように、国家や社会の責任を子ども当人や家庭に押し付けないでいただきたい。
私が経営しているカフェ(@gochamaze_mem )はね、未成年の飲食いつでも無料だよ。離乳食もアレルギー対応もばっちこいだし、フレンチトーストとかプリンとか食べたいものテキトーに頼んでくれていいし、学校行くふりして逃げてきてもいいぜ〜
私は「たかが名前」とは思わないな。中身が大切なのは言うまでもないこととして、子どもが見聞きする名前ひとつだって大事なものだと思う。「頼ってみようかどうしようか」「話してみようかどうしようか」子どもが判断する時、名前の印象も材料のひとつになるんじゃないかな。#こども庁でお願いします
私たちが言いたいのは、名称が嫌だからどうにかしろ、ということではありません。そういった構造を体現するような名付けのプロセスを容認していいのか、それでどうやって虐待を防止していく社会をつくるのか、ということを訴えたいのです。
親も子どももも、家庭の付属品ではないよね。それぞれが尊重されるべき個人であり、それぞれが別の人間。違う考え方、違う気持ち、違う悩みを抱えているのが当たり前のはず。だからこそ、それぞれが外部に頼れる多数のリソースを持つこと、それが、親も子も生きやすくなる方法のひとつだと思うんだ。
ただコミュニティの規模が違うだけ。どちらも支配者の一存で決まってしまう問題が顕在化したのだと思っています。つまり、このプロセスと結果を受け入れるということは、たとえ子どもが家庭という規模感のコミュニティ内で声を聞き入れてもらえなくとも、「決まったものは仕方ないから我慢しろ」です。
朝日新聞のインタビューを受けました。有料記事ですが、「こども庁」という名称の意味について話しています。 私はこの問題を、単なる名称をめぐる議論ではなく、子どもへの大人の眼差しそのものを考え直すきっかけだと思っています。 よかったら。 asahi.com/sp/articles/AS…
「こども庁」への名称変更を求める関連団体・専門家ネットワーク(仮称)を立ち上げました。 賛同してくださる団体、専門家の方がいらっしゃれば、ウェブサイトのお問い合わせフォームよりご連絡ください。よろしくお願いします! kodomo-cho.net
これは自戒だが、当事者が声を上げながら活動していると徐々に権威性を帯びていくことがある。そのとき、それまでの人生で得られなかった、あるいは奪われてきた承認が一気に満たされるような錯覚に陥るからなのか、まとわりつく視線と権威性が、本来の目的を歪めてしまうという現象が起こりうるのだ。
虐待の後遺症としての薬物依存と回復を、私のヒストリーとともに取り上げてくださっています。明日よる20:00からです。 ハートネットTV 虐待の“後遺症”を抱えて(2)「回復への道」 | NHK ハートネットTV nhk.or.jp/heart-net/prog…