さむ(@urakutenism)さんの人気ツイート(新しい順)

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「君死にたもうことなかれ」 フォントと色が恐怖を誘います。 近頃ではあまり見かけなくなりましたが、年間の交通事故死亡者が2万人近かった昭和時代(ちなみに令和4年は2610人)は全国の至るところに交通安全を啓発する標識や看板が立てられていました。 1975(昭和50)年頃、沼津市多比
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相模鉄道の60周年記念誌より、かつて飯田橋駅の近くに存在した相鉄興産の砂利ホッパー。貨車の荷台から高架下へ落とされた砂利はダンプトラックに積み替えられ、コンクリートに混ぜ込むための骨材用としてビルや高速道路の建設現場などへ送られました。跡地には現在都の施設が建てられています。
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あまりにも背景が変わりすぎてて自分で撮っておきながら最初どこか分からなかった…いまから30年前の立川駅です。
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知らぬ間に亡き祖父がYouTubeデビューしてて笑った
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いまや懐かしの押しボタン式自動券売機が並ぶ、駅のきっぷ売場。90年代半ばから現在のタッチパネル形へと置き換わり始め、急速に姿を消していきました。
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東横線の高島町駅跡、結局解体されちゃったのね(´・ω・`) 写真は20年前に撮影した現役時代のもの。通勤時間帯を除くとほとんど乗降もなく、駅構内はひっそりとしていました。 twitter.com/hikari_zero/st…
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かつて新宿駅の代々木寄りに広がっていた貨物ホームと入れ換えヤード。国鉄末期の昭和50年代後半に行われた貨物輸送の大幅削減で廃止となり、跡地には現在「高島屋タイムズスクエア」などが建っています。
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WEBマップルで新たに実装された地割図、ホントこれ時間泥棒だわ… 大船駅と今はなきドリームランドを結んでいたモノレールの廃線跡もこんな感じでくっきり。等間隔に並んでいる四角い枠は軌道桁を支えていた橋脚。
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3年B組金八先生でお馴染み武田鉄矢がボーカルを務めるフォークバンド「海援隊」の1973(昭和48)年に発売された2ndアルバム「望郷篇」のジャケットより、新宿・歌舞伎町周辺。かつて路面電車(都電)が走っていた線路敷は遊歩道として整備されています。
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山手線による環状運転が始まって間もない大正末期の上野駅ホーム。古レールを再利用したトラス構造の柱や梁は当時のまま。
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鉄道による貨物輸送がまだ盛んだった頃に行われていた、貨車を用いたオートバイの出荷風景。 昭和40年代以降は高速道路網の整備が進み、一方の国鉄は度重なる運賃の値上げやストライキによる定時性の喪失などから顧客離れが加速、50年代に入るとこのような輸送も姿を消しています。
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いまから20年ほど前に撮影した営団地下鉄(現・東京メトロ)千代田線の6000系。連結部にはお馴染みの引き戸がなく、開放的な車内が特徴的でした。
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1975(昭和50)年の航空写真より、新橋駅と隣接するように存在していた汐留駅。かつては東京の物流拠点として昼夜を問わず貨物列車が発着していましたが、高速道路網の整備にともない輸送の多くがトラックへと切り替わり、民営化目前の1986年に廃止。跡地は再開発され現在は高層ビルが建ち並んでいます。
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東急東横線の祐天寺駅から歩いて5分ほど、閑静な住宅街の中にあるカレー屋「ナイアガラ」さん。開業はいまから60年前の1963(昭和38)年。店内には大の鉄道好きだった"駅長"(初代オーナー)さんが全国各地を巡って集めたコレクションの数々が所狭しと並べられ、ファンにはたまらない空間となっています。
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いまから20年前のアキハバラ。この頃はまだ電気街の雰囲気も少なからず残っていました。
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京王線新宿駅の3番ホーム下に残る旧4番線のレール跡。かつては5面4線(5つのホームに4本の線路)の構造でしたが、車両の大型化や10両編成化にともない現在の3面3線へ改良。その際、支柱の位置は変えずにホームを作り直したため、やけに柱が片側に寄っているなど、不思議なレイアウトになっています。
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かつてJRの川崎貨物駅から京急の小島新田駅脇まで続いていた連絡線跡。跡地はすっかり宅地化されていました。
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いまから90年ほど前の御茶ノ水駅周辺。奥に架かる総武線の神田川橋梁は当時のまま。この頃はまだ背の高い建物も殆どなく、聖橋から秋葉原駅まで見通すコトが出来ました。
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横浜駅前にいまも残る、東急東横線の高架橋跡。20年前の地下化以前はここでJR線を跨ぎ、桜木町駅へと向かっていました。廃線跡を遊歩道として整備する計画はあるものの一向に進んでいる様子もなく、鉄橋は赤錆び、コンクリートの橋台も蔦に覆われています。
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1932年に鉄道省が発行した「上野駅改良工事概要」より横断面図。二層構造になっているのが分かります。 twitter.com/urakutenism/st…
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上野駅の名物にもなっている、やけに天井の低い乗り換え通路。何故このような構造になってしまったのかというと、実はこの通路の真下にも同様の通路がもう1本あり、二層式にするコトでかつては旅客と荷物の動線を分けていたのでした。昭和末期に荷物輸送は廃止となり現在は業務用通路となっています。
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ふと思い出す、群馬へ転勤して初めての冬。乗客が自らドアの開け閉めをしている光景に小田急沿線で育った自分は大いに驚いたのでした。
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50年前の横浜・桜木町駅。かつては駅舎の位置がいまと異なり、やや関内寄りにありました。(旧駅舎の跡地には現在JR系列のホテルメッツが建っています) 奥に見えるクレーンの林立している場所は三菱重工の横浜造船所。バブル期に再開発が行われ、"みなとみらい"へと姿を変えています。
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1975(昭和50)年の航空写真より、旅客化以前に使われていた京葉線の旧線区間。蘇我駅周辺の用地買収に難航していたため、すでに存在していた川崎製鉄の専用線を一部間借りするコトで、千葉貨物ターミナル(2000年廃止)と蘇我駅の間を結んでいました。ちなみに現在のルートで開通するのは1988年のコト。
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自分の中で相鉄といえば未だにこのイメージ RT