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この東條の覚悟は、他の被告も同じ考えであることを、重光葵は「巣鴨日記」に書いている。… twitter.com/i/web/status/1…
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東條の、陛下に御迷惑はかけぬという覚悟については、重光葵の「巣鴨日記」にも何度か出てくる。
昭和22年1月8日… twitter.com/i/web/status/1…
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東條が語った覚悟については、塩原時三郎(木村兵太郎弁護人)は次のように書いている。(ハンドブック社『東條メモ』)… twitter.com/i/web/status/1…
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東京裁判で、戦勝国側には天皇を被告にできないなら証人として法廷に呼べという声があった。それが実現すると、かつての重臣たちを前に天皇が「自分は無関係」だなどと言うはずがなく「すべての責任は自分一人にある」と言い出しかねない。それは天皇の退位問題に発展する。… twitter.com/i/web/status/1…
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東京裁判でA級被告を全力で弁護した米国人弁護人たち。
昭和21年6月に代表を辞任、帰米した東條担当のコールマン大佐がいるのでそれより前の写真だと思う。
人物を特定しようとしているが、あと9人わからない。特定した人物も間違いがあるかもしれない。… twitter.com/i/web/status/1…
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巣鴨プリズンに新設された処刑台について、米軍に徴用された日本人の具体的証言があった。雑誌『刑政』昭和33年7月号より(全員出所し巣鴨プリズンが閉鎖された時の号で巣鴨プリズンが特集されている)。… twitter.com/i/web/status/1…
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人々の記憶は20年もすれば消えると、今は亡きひなたさんがツイートしていて、なるほどと思ったことがある。「戦犯救済とその名誉回復」をもたらした、あれだけ盛り上がった国民運動の記憶が今に伝わっていないからだ。むしろ、逆の“記憶”で上書きされてしまっている。… twitter.com/i/web/status/1…
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重光葵は「巣鴨日記」の中で、巣鴨プリズンのことを狂宿、狂人宿と呼んでいる。日本人に対する扱いがあまりにも非人道的だったからだ。… twitter.com/i/web/status/1…
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BC級裁判で多くの日本人が捕虜虐待の罪で絞首刑や終身刑等に処されているとき、凄惨な虐待が連合軍兵士によって各地の戦犯収容所で行われていた。巣鴨はずいぶんマシではあったが、A級被告に対してさえも、戦犯裁判と同じ基準を当てはめれば、重罪が課せられるであろう“虐待”が続いていた。被告たち… twitter.com/i/web/status/1…
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巣鴨プリズンではA級被告らは真冬も朝夕丸裸にされて検査される。
そのことを重光葵は「巣鴨日記」に次のように書いている。
毎日二十六名の老人の丸裸姿を見せられるのは気持好きものに非ず。老人の裸形は形をなさず、ただ悲哀を感ぜしむるのみ。これ皆当年の権臣なり。
化物の裸行列に家寒し… twitter.com/i/web/status/1…
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重光は東條のことをかなり気に掛けていたようで、重光葵の『巣鴨日記』には東條の話がよく出てくる。「単に東條を悪人として悪く云えば事足れりと云う風な日本の世評は浅薄」と重光。自決失敗後、東條はマッカーサーの見舞いを受け感激したという話も。昭和21年10月20日の日記から抜粋。… twitter.com/i/web/status/1…
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ここでの話の中心は、昭和22年の段階では、関係者以外知らなかった「卑怯な日本の騙し討ち」の裏側、米側が日本の攻撃を、その日時まで把握していたということを、米国人弁護人(ブレイクニー少佐)が明らかにしたために、判事や検事が驚きのあまり絶句した、ということ。米国人弁護人は、法廷に呼ん… twitter.com/i/web/status/1…
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この時の法廷の記録によると、ブラットン大佐が日本大使館宛の、暗号簿と文書の破棄命令を傍受したのが12月3日で、日本大使館では文書の焼却が見られた。大佐はそのことを諜報部長マイルズ将軍と作戦計画部長ジェロウ将軍に報告、おそらく開戦を意味する、ということで意見が一致した。… twitter.com/i/web/status/1…
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米国人弁護人が陸軍省情報部のブラットン大佐に証言させ、日本の卑劣な騙し討ちである真珠湾攻撃が、実は大統領も含め、米側は事前に知っていたことを明らかにした。村田省蔵はそのときの法廷の様子を「検事側一言も発せず、裁判長また沈黙を守りたり」と日記に書いている。… twitter.com/i/web/status/1…
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巣鴨プリズン収監者の手記を読むと、東條元首相のことに触れているのをよく見かける。
児玉誉士夫も東條元首相のことをよく書いている。
昭和21年2月28日
…中食のとき、はじめて東條さんと廊下で立話をした。… twitter.com/i/web/status/1…
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市ヶ谷の極東国際軍事裁判法廷で打ち合わせ中の弁護人たち。重光葵は『巣鴨日記』の中で、これら米国人弁護人の「国境を越えたる職務上の努力は真に敬服に堪えず」と述べている。その弁護の姿勢に、東條元首相は被告席で涙を流したこともあった。… twitter.com/i/web/status/1…
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広島の原爆の碑を見たパール博士の言葉は、今の日本人に重くのしかかる。… twitter.com/i/web/status/1…
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昭和27年に訪日したパール博士が口にした日本批判は、そのまま今の日本批判になっているものばかりだ。… twitter.com/i/web/status/1…
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パール博士は日本の行く末が見えていたのか、日本人に以下のような警告を発していた。… twitter.com/i/web/status/1…
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そしてこれがパール博士が日本を去るときに残した言葉。正直、涙が出てきた。… twitter.com/i/web/status/1…
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昭和27年、パル博士が4年ぶりに来日したときの第一声がこれである。
「このたびの大戦の最も大きな災害、最も大きな犠牲は〝真理〟である。われわれはこの真理を奪い返さねばならぬ」
みなさんはどう感じただろうか。
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昭和27年に来日にしたパール博士が大川周明に語った言葉。
「日本は独立したといっているが、これは独立でもなんでもない。しいて独立という言葉をつかいたければ、半独立といったらいい。アメリカによって与えられた、歪められたものの見方や、考え方が少しもとれていないではないか」… twitter.com/i/web/status/1…
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これが共産党。 twitter.com/ixabata/status…
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