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かりませんが、常設店舗があった可能性があります。つまり、それだけ賑わっていたということですね。甲府も、信玄時代になると、常設店舗の存在が推測されます。それは「町棚役」が創設されるからです。つまり、町棚(商品の陳列棚)に課税できるほど、商業が繁栄していたとみられるからです。戦国大名
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大坂冬の陣に際して、大坂方が堤防を切って浸水させたという話は、『慶長見聞書』巻5、『譜牒余録』巻41、などに記述があります。12月初旬頃、大坂方が徳川軍の通行を妨害すべく、河内出口村の堤防を切り、淀川の水を枚方に入れるとともに、進軍を妨げたとあります。ただし、どれほどの浸水であったか twitter.com/KOREMUNE8/stat…
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武田氏関係でいえば、今年が信玄生誕500年、来年信玄450回忌、三方原合戦450年、2023年信玄没後450年、2024年長篠戦没者450回忌、2025年長篠戦後450年、2030年髙天神城戦没者450回忌、2031年武田勝頼450回忌、2032年武田氏滅亡450年、等々、考えたら目白押しですぞ。これをきっかけに盛り上げずして
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【お知らせ】拙著新刊『新説・家康と三方原合戦』NHK出版は、今日発売されました🎉ポロローン🎶←昭和の週刊新潮のCM風に😄
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の城下町は、規模の大小を問わず、寺社の門前、六斎市などを含み込んだ、複合都市だったと考えられます。
それに対し、一向衆寺院の寺内町は、住人の数、周辺への影響力などを勘案すれば、地方では比類ない都市だったはずです。野寺本證寺、針崎勝鬘寺、佐々木上宮寺、土呂本宗寺などは、いずれも
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は、その時期がはっきりしないのです。永禄5年2月15日に氏真は、小坂井八幡神社(豊川市)に禁制を発給しているので、軍勢を動かしたのは間違いありません。でもこの時すでに、上之郷城は陥落していました。私は、氏真の三河出陣は、上之郷城救援のためだったが間に合わなかったと考えています(黒田基
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呼ばれ、その麓には時宗一蓮寺があり、周囲には門前町が展開していました。この一蓮寺門前町は、武田信虎の甲府開府以前から存在していた町場で、秩父往還、青梅街道、甲州道(近世の甲州街道)、鎌倉街道、若彦路、佐久往還などが入り込んでおり、当時としては巨大な町場でした。その実態はほとんどわ
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アタクシの新刊『徳川家康と武田信玄』角川選書は、密林での予約が始まりました。まだこの時期なのに、順調のようです。引き続き、よろしくお願い申し上げます。
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【お知らせ】情報が解禁されましたので、お知らせします。岐阜県垂井町で、講演を行います。皆様、奮ってご参加下さい。10月9日(日)です。石川美咲氏も参加され、とても貴重な講演をして下さいますよ。
prtimes.jp/main/html/rd/p…
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近世中期以降にみられるもので、史料として裏付けできないというのがその理由です。ではなぜ氏真は人質交換をしたのかといえば、それは家康方に確保されていた鵜殿長照の息子二人を見殺しにしてしまったら、今川氏の三河における威信の損失に繋がるおそれが高かったからだと考えられます。氏真は、家康
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12月3日(土)、何かが起こる。ぜひ予定をあけておいて下さいね。ふふふふ😊場所はなんと浜松です‼️😆
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在城していたのですが、桶狭間敗戦後も籠城を続け、織田信長に城明け渡しの交換条件として、今川義元の首級を貰い受けることを申し入れ、それを実現させています。元信はその帰途、刈谷水野信近を滅ぼし、駿河に帰ったのです。そのため、刈谷水野家は、宗家信元が併せて継ぐこととなり、水野信元の支配
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領域は拡大しました。このことから水野信元の軍事力は拡大したらしく、3000人を率いる大身だと、ポルトガル宣教師が記録しているほどです。こうした実力が考慮されてか、水野氏は、朝廷や室町幕府からは、織田氏の家臣ではなく、同盟者として扱われ、別格の存在とみなされていました。それに対し、
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力になっているのです。私は、真田丸以来、大河絵を描いている皆様と交流を持つことが出来ました。皆さんは等しくドラマと俳優陣の大ファンです。それを工作員呼ばわりとは断じて許せません。
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鎌倉殿の13人で、タイムラインがいっぱい。アタクシは、原稿で観られない。でもタイムラインの阿鼻叫喚でわかる。三谷さんの、脚本と俳優陣の凄さが。1冊目も、あと少し。待ってろ家康😞
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静岡県の浜松、島田、掛川市などが連携して、家康対今川とか、家康対武田とか、家康と遠江国衆の駆け引きとか、いろんな切り口でイベント打てるよね。こうすりゃ、地元の伝承も集めて面白いことがわかりそう。知られざる史跡の掘り起こしと体系化とか。一緒にやろうよ‼️
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最近の歴史本は、優れた著作が増えたいっぽう、かみくずのようなほんもふえているなぁ。読み手の見識が問われてるとおもふ😞自称歴史家や、ライター未満はマジひどすぎる。
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戦国期も、噴煙があがっていました。諸史料から判断できますね。 twitter.com/usa_hakase/sta…
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誰だ⁉️そんなアホなこと言ったの。ミーハーは、男だって同じやで。アタクシなんざ、グラビアアイドル大好きです😔アイドルの推し具合の凄さは、周知の通り。好きなこと、好きなヒトを支えたいっていうことはとうといことじゃないの❓それを揶揄の対象にするのは、人として間違ってると思うぞ。 twitter.com/takekawa_yu/st…
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天正10年3月10日夜、勝頼は19歳の北条夫人に小田原まで落ち延びるよう勧める。都留郡岩殿城を目指した理由の1つに、北条夫人の実家に近く、彼女を託して最後の決戦をする覚悟だったという。だが北条夫人は頑なにこれを拒否し、勝頼とともに散華することを選ぶ。侍臣に遺髪と辞世の句を託した。
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殿長照は。今川義元の姉妹を妻としていた今川一門で、息子氏長・氏次は氏真の従兄弟に相当する。そのため、今川一門の鵜殿兄弟を見捨てることが出来ず、人質交換に応じた、とされています。ところが、現在、今川氏の研究者はほぼこの通説を否定しています。鵜殿長照の妻が、義元の姉妹とする記録は、
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「○○村」とあり、どこか適当な村を入れなければならないということで、私が考えて選んだものです。この六名村は、糀が特産品で、江戸時代は村の人が農閑期に売り歩いたことで知られていますが、この糀については、次のような伝承があります。それは、三河一向一揆勃発の際に、六名村の人々は、
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安中重繁の読みはマジわからん。苦し紛れに「しげしげ」としてある。アタクシも、『戦国人名辞典』で、武田家臣の1人の読みが分からず、辞書で読みの候補を確認し、勝手に命名しちまったのがある。いま、それが『武田氏家臣団人名辞典』にも引き継がれちまった。すんません😥
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だからこそ、安易な三谷氏批判には憤りを覚えるのです。一緒に仕事をしたこともないのに、他のドラマの経験を聞き齧って、あたかも三谷氏もそうであるかのように語る言説には憤りを禁じ得ないのです。