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施したところ、飛距離は100メートル以上、そして夜間での火矢は「真っ赤な炎を吹きながら飛翔する火矢は真っ暗ななかではっきり視認できた。よって、飛行方向をきちんと制御することができると夜の暗闇で遠くに味方に合図する手段としては大変優れていることがわかった」と報告されています。これらは
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山田雄司編・三重大学国際忍者研究センター監修『忍者学大全』東大出版会に収録されている、荒木利芳「忍者の火器・火術」という論文をご参照ください。とにかく、この論文集は凄いの一言で、必見ですよ。ということで、今回の上之郷城における火花のような飛翔物は、「大国火箭」であり、当時の忍びが
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(3)人質交換の実態について
今回は、通説に準拠したストーリー展開でした。今川氏真が三河に出陣し、吉田城に入ったこと、そこまで瀬名母子と関口夫妻を伴ってきたこと、となっていました。これは脚色です。実際には、竹千代と関口夫妻は駿府におりました。ただ、氏真の三河出陣は史実です。問題なの
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は、その時期がはっきりしないのです。永禄5年2月15日に氏真は、小坂井八幡神社(豊川市)に禁制を発給しているので、軍勢を動かしたのは間違いありません。でもこの時すでに、上之郷城は陥落していました。私は、氏真の三河出陣は、上之郷城救援のためだったが間に合わなかったと考えています(黒田基
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(4)男を上げた石川数正
石川数正は、後に徳川家中から出奔してしまいますが、『三河物語』は人質交換の時の数正を大いに褒め称えています。同書によると、竹千代は、父家康が今川から離叛したので、駿府では「すぐに殺せ」「明日殺せ」などの声がかしましかったといい、関口氏純の孫なので何とか無事
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だったといいます。すると石川数正は「幼い若君おひとりで殺されるならば、御供する者もないのは、人の目にも寂しく映ることだろう。ならば私が参ってお最期の御供をしよう」と申し出て、駿河に出かけていったという。数正の行動に、身分の上下に関わりなく、感動しない者はいなかったという。そして、
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人質交換が成就し、数正は竹千代とともに岡崎に戻ってきた。岡崎の人々は大いに喜び、主従を迎えに出た。石川数正は、幼い若君を自分の鞍の前に乗せ、大きな八の字の髭をピンと反らし、いかにも自慢気だったと記されています。家康重臣石川数正の武勇談として、とても有名ですね。今回の松重さんの数正
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(5)鵜殿長照とその息子たちと氏真との関係とは
今川氏真が、家康方と人質交換をしたことについて、『三河物語』は「氏真はさてさて阿呆か、竹千代様と鵜殿とかえるなどというばか者か」といわれたと記されています。なぜ氏真は、鵜殿長照の息子氏長、氏次と竹千代の交換を了承したのか。通説では、鵜
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殿長照は。今川義元の姉妹を妻としていた今川一門で、息子氏長・氏次は氏真の従兄弟に相当する。そのため、今川一門の鵜殿兄弟を見捨てることが出来ず、人質交換に応じた、とされています。ところが、現在、今川氏の研究者はほぼこの通説を否定しています。鵜殿長照の妻が、義元の姉妹とする記録は、
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近世中期以降にみられるもので、史料として裏付けできないというのがその理由です。ではなぜ氏真は人質交換をしたのかといえば、それは家康方に確保されていた鵜殿長照の息子二人を見殺しにしてしまったら、今川氏の三河における威信の損失に繋がるおそれが高かったからだと考えられます。氏真は、家康
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(6)関口氏純夫妻の成敗について
通説では、家康が今川氏から離叛したことにより、関口氏純は切腹を命じられたといわれてきました。これは『三河物語』以来の通説です。『松平記』なども、築山殿が「私こそが家康の本妻であり、信康の生母である。しかも私の父は家康のせいで命を落としており、皆は私
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を尊重してしかるべきなのに、このようにむげにされていて無念だ」といつも繰り言をいっており、そのため家康と築山殿の夫婦関係が悪くなっていた、と記しています。こうしたことから、戦国史研究者たちは、関口氏純は氏真に成敗されたのだろうと考えていました。ところが、関口刑部少輔氏純は、永禄9
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年まで関口伊豆守氏純として存命していることが史料発掘の結果明らかとなりました。このことから、関口が成敗されたのは誤りであり、『松平記』などの記述は否定されることとなります。また、一部の方から、罪人の父母にまで縁座・連座が適用されるのはありえないだろうとの見解が出されています。上記
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のように、氏純は生き延びているのですから、家康離叛の責めを負うという形での成敗はありません。ただ、関口家の今川家中における地位が、これをきっかけに大きく変動(失墜)した可能性は大いにあります。関口氏純は、家康の義父であるとともに、今川家中における取次役(指南)です。取次役は、自分
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が担当していた国衆などが離叛すると、責任を問われ、場合によっては命を狙われることもありました。石川数正、片桐且元、大野治長などはまさにこの事例に相当します。もし関口氏純が、家康のために命を落としたという『松平記』の記述が正しいとすれば、それは家康離叛の時ではなく、永禄11年12月の今
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本日、アタクシも出演します(カットされなければ出演するハズ)。でも東京なので、自分では観られない😭 twitter.com/nhk_koufu/stat…
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時代考証の呟きは、果たして世の役に立っているのか❓️🤔アタクシは頑張ってるつもりなんだけどなぁ😔
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(1)元康から家康への改名時期
今回の物語は、松平元康が、今川義元から与えられた偏諱にもとづく「元康」を捨て、「家康」へと改名することで、今川氏との完全なる訣別を告げようとする思慮を重ねるという内容でした。そして、家康と改名することの意味を、「どうする家康」という物語において、
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どのように位置づけるかという、脚本の古沢さんの考え方を知る手がかりになる回でもあったと思います。設定は、永禄6年夏とあります。元康から家康への改名時期については、確実な史料では判然としません。『徳川幕府家譜』によると、改名は、永禄6年7月6日とされています。家康の発給文書から追って