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「軍師」が存在している設定とし、その人物を本多正信をしたことで、面白さが増したと思います。しかし残念なことに、「軍師」という役職は、戦国期には実在していないのです。それに近い言葉を探すとすれば「軍配者」ですが、彼らの役目は、「奇特」(不可思議な霊力)を持ち、日取り、月取りなどから
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大将」でした。これらは、すべて後世の創作です。山本勘助を「軍師」としたのは、管見の限り、享保6年(1721)成立の浄瑠璃「信州川中島合戦」(近松門左衛門作)が最初で、これ以後、「武田信玄の軍師山本勘助」が定着していくのです。今回は、一揆側が家康軍に善戦した理由の一つとして、優秀な
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には一切登場しません。意外に思われる方は多いと思います。例えば、武田信玄の家臣山本勘助、豊臣秀吉の家臣黒田官兵衛などは、「軍師」として名高く、大河ドラマにもなりました。しかし、山本勘助の活躍を描く『甲陽軍鑑』ですら、勘助を「軍師」だとは一言も書いていないのです。彼はあくまで「足軽
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ます。そのため、まともに家康と戦ったことはなかったと考えられます(酒井忠尚は籠城戦に徹しており、家康軍と交戦したという記録がない)。今回強調されている「軍師」ですが、戦国期の日本には存在しませんでした。大将の傍らで、軍事、計略、作戦全般を支える役職といわれていますが、戦国期の史料
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浜松、すげーコトになりそうだなぁ😳松本潤さんが家康役で来られるとは😳アタクシも参加したい😆😆
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込んだ、とてつもなく巨大な城郭寺院だったと想像されます。城郭研究者の多くは、当時の本證寺は、家康の本拠岡崎城と同等か、それより巨大だったのではないかと想定しています。なお、本證寺の堀に、蓮の花が咲いていましたね。でもドラマの表現はかなり控えめですよ。本證寺の蓮は、それはそれは見事
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外堀の確認などにより、縄張復元図の正しさが証明されています。その規模は、310×320メートルで、当時は99,200㎡もの広さでした。ちなみに東京ドームは、47,000㎡ですので、本證寺はその2.1倍もあるのです。外堀と土塁で囲繞された空間には、寺内町があったのですから、当時の本證寺は、町を内部に抱え
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本證寺は、現在では内堀、土塁に囲まれた本堂などがありますが、戦国期は広大な外堀に囲まれた巨大な寺域を誇っていました。現在も残る絵図と、地形、小字図をもとにした縄張復元がこれまで、千田嘉博氏を始め、何人もの研究者によってなされてきました。そして、今では発掘調査が進められており、
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(参考文献)神田千里『一向一揆と戦国社会』、安藤弥『戦国期宗教勢力史論』、草野顕之『戦国期本願寺教団史の研究』
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ちなみに、江戸幕府のもとで、真宗は「浄土真宗」を公称とすることを許されず、「一向宗」であることを強制されていました。「真宗」の公称は明治5年になってからであり、さらに本願寺派が「浄土真宗」を公称とするようになったのは、大戦後のことでなのです(他の宗派は「真宗」を用いています)。
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らです。ドラマの中で、野寺本證寺の境内には、極めて雑多な身分、出自、職業の人々がいましたよね。なかには、盗みや人殺しをした者もいたことが表現されていました。これは、一向衆門徒の実態をできるだけ明示しようという、脚本家古沢さんの意欲的な試みだと思います。
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められます。今回のドラマでは、「一向宗」の呼称を用いたのは、一般の方々にもよく知られたものであるというのが大きいですが、この真宗教団が、百姓、商工業者、武家だけでなく、アウトローや、上記のような、民間宗教者、民間芸能者など幅広い人々を門徒とし、彼らに支えられていたことを重視したか
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甲斐国でも、本願寺派を「無碍光宗」と呼ぶ事例が存在します。『勝山記』享禄5年条に「ムケカラ(ウ)宗」が法華宗と争ったことが記録されているのです。これは、山科本願寺が法華一揆と六角定頼軍によって没落させられたことを指しており、武装蜂起した本願寺門徒(一向一揆)の呼称であることが確か
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ました。邪教批判を恐れた高田専修寺(高田派)、仏光寺(仏光寺派)は、本願寺と混同されることを不快として、「無碍光宗」を拒否し「一向宗」を自称するのです。いっぽうで蓮如は、「無碍光宗」の宗名には肯定的で、戦国期において本願寺派や一向一揆を「無碍光宗」と呼ぶ事例も少なくありません。
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異称)に由来するもので、特に蓮如が「無碍光本尊」を信仰の核としていたことから、「一向宗」と並ぶ呼称となっていました。だがこの呼称については、京都五山の禅僧らが、「無碍光宗」を中国の白蓮教徒になぞらえ、蓮如と本願寺を邪教として批判したことから、一向宗の内部で対応がわかれることとなり
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しての意味で用いられています。そして、「一向衆」から「一向宗」への展開は、本願寺派を中心とする真宗が、一宗派として自立し、他宗や武家などから認知されていく過程を示すものなのです。
また、「一向宗」の別称として「無碍光宗」(むげこうしゅう)があります。これは、無碍光仏(阿弥陀仏の
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霊能、芸能などを通じて彼らが民衆に深く食い込んでいたからであり、それが一向宗伝道のためには大いに力を発揮すると考えたからとされています。
なお、「一向衆」と「一向宗」が室町から戦国期にかけて混用されていますが、「衆」は信仰の集団、「宗」は、古代では学派、中世になると宗派、教団と
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多かったとされ、共通しているのは、念仏信仰という一点であり、その構成者は一般民衆はもちろん、山伏、巫女、琵琶法師などの民間宗教者や民間芸能者をも幅広く含まれていました。蓮如は、こうした民間宗教者や芸能者を門徒として迎え入れ、教団発展の裾野にしていきます。蓮如が彼らを受け入れたのは
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(ひたすら念仏に専修すること)が語源です。だが、「一向宗」は、もともと浄土真宗や本願寺教団とは同義語ではありません。実のところ、一向宗徒は、ほんらい真宗だけでなく、時宗、一向派(一向俊聖の時宗)を含む多様な念仏者を指すものでした。そのため、親鸞、一遍、俊聖それぞれの教義にはズレが
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浄土宗の反発などから実現せず、他宗派からの呼称である「一向宗」「一向衆」を受け入れざるをえなかったといわれています。ただ、教団内部では、浄土真宗、真宗と自称し、戦国期には「一向宗」も用いられるようになったようです。
ところで、そもそも「一向宗」の「一向」とは、「一向専修」
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(1)一向宗の名称と信者たち
教科書などで、親鸞を開祖とする教団は、浄土真宗とされ、これは一般常識となっています。ところが、親鸞は自身の宗派を恩師法然の教えを引き継ぐ「浄土真宗」と自認していました。そして蓮如は、これを継承して宗派名とすべく努力するのですが、#時代考証の呟き