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「年貢」と回答した方は×です。「年貢」は原則として水田から米を納めさせるものです(但し、地域の特性により塩などの特産物が「年貢」となっていたことは、かつて網野善彦氏が明らかにした通りです)。戦国大名の手元に、「年貢」が入ってくるとすれば、それは御料所(直轄領)からです。実は戦国大
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いう意識が実在したと紹介しました。その後、一部の方々から、「家」というのは家臣など武家を指すのであって、百姓を始めとする民衆など含んでいない、とのコメントが寄せられました。残念ながら、当時の「家」は、民衆のそれをも包含するものです。戦国大名の主要財源が何か、ご存じですか?
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らと連合して家康を攻め潰す可能性はなくなりました。こうして反家康一揆は、連携することなく各個撃破され、鎮圧されていったのです。
(参考文献)
村岡幹生『戦国期三河松平氏の研究』岩田書院・2023年
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吉良義昭、松平昌久らは原則、籠城戦に徹し、家康とは交戦した形跡がありません。これは今川氏真の襲来を待っていたとみられます。ところが、氏真はそれどころではありませんでした。三河一向一揆が勃発した、同じ永禄6年12月、遠州で氏真に対する大反乱(遠州忩劇)が発生したのです。今川軍が、吉良
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『松平記』などにあり、反家康叛乱と三河一向一揆は結びついていたと考えられるようになりました。そこで、単なる三河一向一揆ではなく、三河一揆といわれるようになったのです。ただ、それにしては双方に緊密な連携や、活動があった形跡はなく、家康を潰す最大の好機だったにもかかわらず、酒井忠尚
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重臣で酒井忠次の一族、上野城主酒井将監忠尚が、さらに東条城で吉良義昭、桜井城主桜井松平家次、大草松平昌久などが次々に叛乱を起こしました。これは、今川氏に呼応した反家康叛乱です。そこに、三河一向一揆が重なり、勃発したのです。一向一揆の蜂起には、酒井忠尚や吉良義昭らが使嗾していたと
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近年、村岡幹生氏の精力的な研究によって、永禄6年秋から同7年春までの西三河争乱は、三河一向一揆だけでは片付けられぬ問題があると認識されるようになったからです。永禄6年4月、今川氏真は「三州急用」といって、三河攻めのための臨時課税を全領国に通達しました。これに呼応して、6月までには家康
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家康は石川家成に命じて重治の遺骸を探索させ、その死を嘆いたといいます。そして上和田に手厚く葬ったと記録されています。諸書によると、土屋長吉重治は享年22。『寛政譜』の土屋重治は享年45。同一人物には見えないのですが、今回は著名な逸話を採用し、ドラマに織り込んでいます。
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広次は改名だと主張する人がいると仄聞しますが、根拠がなく、私としては受け入れることは出来ません。
次に、三河一向一揆のヒーローといえば、土屋長吉重治を思い浮かべる人も多いでしょう。一揆側に荷担したのに、家康の危機を座視しえず、彼を庇って戦死したという逸話は、広く知られています。
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(静岡県袋井市)を寄進した時の奉書に、「夏目次郎左衛門尉広次(花押)」とあり、当時の家康重臣層に、夏目姓で、次郎左衛門尉の官名は、「吉信」以外にはおらず、系図類の「吉信」は誤りで、「広次」が正しいことが判明しました。そこでドラマでは「広次」で登場するのです。いまだに、元は吉信で、
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いたと思います。
ここで登場する夏目広次は、初期の家康を支えた重臣でした。かの文豪夏目漱石の祖先といわれています。江戸幕府が編纂した『寛政重修諸家譜』など、幕府の諸記録では、「夏目吉信」とされてきました。しかし、永禄12年12月23日、家康が紀伊国熊野山実報院に、遠江国山野庄土橋郷
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宿老石川数正ですら一向宗門徒であり、一揆勃発に際しては浄土宗に改宗して家康を支える苦衷を経験しているのです。切り結ぶ敵味方が、なんと主君と家来だったという展開、そして主君を斬れぬ家来が、自らその刃を身体に当てて死んでいく姿、それに慟哭する主君、三河一向一揆の悲劇を実によく表現して
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なお、都市の定義ですが、①一定の区域における人口密度が極端に高いこと、②居住者の出身地が多様であること、③居住者の職業が雑多であること、④居住者の職業が、商人、職人などの割合が高いこと、などを想定しています(これは私個人の研究による実感です)。
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矢作川水運、塩の道、東海道やその枝道などを押さえる位置にありました。家康の本拠岡崎城よりも繁栄していた可能性があるのです。今回は、その繁栄ぶりを、セットやCGで表現できていたと私は考えています。大河で、地方の一向宗寺院の寺内町が、本格的に表現されたのは初めてではないでしょうか。
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の城下町は、規模の大小を問わず、寺社の門前、六斎市などを含み込んだ、複合都市だったと考えられます。
それに対し、一向衆寺院の寺内町は、住人の数、周辺への影響力などを勘案すれば、地方では比類ない都市だったはずです。野寺本證寺、針崎勝鬘寺、佐々木上宮寺、土呂本宗寺などは、いずれも
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かりませんが、常設店舗があった可能性があります。つまり、それだけ賑わっていたということですね。甲府も、信玄時代になると、常設店舗の存在が推測されます。それは「町棚役」が創設されるからです。つまり、町棚(商品の陳列棚)に課税できるほど、商業が繁栄していたとみられるからです。戦国大名
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呼ばれ、その麓には時宗一蓮寺があり、周囲には門前町が展開していました。この一蓮寺門前町は、武田信虎の甲府開府以前から存在していた町場で、秩父往還、青梅街道、甲州道(近世の甲州街道)、鎌倉街道、若彦路、佐久往還などが入り込んでおり、当時としては巨大な町場でした。その実態はほとんどわ
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が一般的でした。戦国期の各国には、複数の六斎市が分布しており、毎日どこかで市が開催されている状況でした。しかしほぼ毎日店舗が営業するというのは、まずなかったと考えられます。武田氏の本拠甲府でも、最大の商業地域は八日市場と三日市場でした。ただ、現在の甲府城跡の場所は、当時一条小山と
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の想定に近く、町場の人々が集まり芸能や講話が行われることもしっかりと表現されていました。また、家康らが町家が毎日開いていることに驚いたシーンが第7回にあったと思いますが、あれは当時の人々には驚きだったはずです。当時は、京などの一部の巨大都市を除き、地方では六斎市(月六日の定期市)
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寺内町といえば、短冊形地割による整然とした区画に、町場が建てられている情景を思い浮かべがちですが、こうした景観は、織豊期以降のものだと指摘されています。戦国期の寺内町は、もっと雑然と町家が建てられていたのではないかといわれているのです。今回、ゴチャゴチャとした設定は、当時の寺内町
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合戦の吉凶を占う者のことで、軍勢の指揮などを主君に代わって行ったり、軍略などに関わる存在ではありません。歴史学者の一部には、「軍師」の言葉を平気で使用したり、「軍師」=「軍配者」とする方がおられますが、実証されていないことをここであらためて確認しておきます。