初めての授業。プリントを1枚忘れただけで教室の隅で怯えるように座っている女の子がいた。彼女はきっとそれくらいできつく叱られることを繰り返してきたので、いま目の前が真っ暗だ。休憩時間に、誰だって忘れ物くらいするから堂々としていていいと伝えただけで彼女は涙をこぼしながらお辞儀をした。
アトピー性皮膚炎の子どもがマスクを外したらマスクの中が真っ赤だったので、マスクもうしないでいいよと言ったら安心したようににこっとした。一律にマスク着用を義務化するのをやめてください。
何事も義務化しないというのは個人の尊厳の基礎であるはずなのに、緊急事態の名の下に義務化が正当化され、それに多くの人が同調してたなびくのはとても危ういことだと感じます。
アトピー性皮膚炎の子どもたちの多くは、手の消毒も困難です。消毒ができないたびに申し訳なさそうな顔をする子どもたちには大人がちゃんと全然OK気にしないでサインを送ってあげないと。
最新の国語便覧、いま感がすごい。
小学校で哲学の授業をした際に痛感したのは、小学生に下手に議論をさせたところで、手持ちの少ない洋服でいかにオシャレするかを競うようなものにしかならないということ。行きつく先はいかにも社会適応的で常識的な議論だ。こういう議論の練習をしたところで早期の「つまらない大人化」を進めるだけだ
だから、こういう場に唯一必要なのは、醜態をさらす大人だろう。社会適応的にふるまう大人のチェックが入る場所での子供の議論なんて、規範性を植え付けることでしかない。
授業を行ったのは一般の公立校ではなく、難関校の6年生。大人の意図に適応することに長けている子が多いと感じた。実験的で目新しい授業に積極的な学校だが、子どもたちがそこで身につけているのは、自由闊達さとは無縁な、より高度な規範性だと感じた。
子供は大人以上に保守的で自分の周りの世界、環境を変えたいとか全く思ってない、むしろ変わらないでほしいと思ってるという話をすると驚かれるけど、子供の食べ物の好き嫌いを参照するだけでもわかる話だと思う。世界を変えたいというのは基本的には大人の発想。
SUGAが「楽しい夜を」という言葉を「楽な夜を」という言葉にわざわざ言い換えた話。「明るい」こと「楽しくする」ことが別にいいとは限らないと多くの大人たちが知るようになって、いまの子どもたちは少しは楽になったかな。少なくとも私自身はちょっと楽になった。
ある哲学者が「十代は人生で一番感性の豊かな時期、その先の人生は十代の頃興味を持ったことを繰り返しているだけ」と書いてるけど個人的実感としては賛同できなくて、感性も興味も深まってるのは現在の私では?と思う。大人は現在の自分を卑下して十代を称揚しがちだが子供に絶望を見せないでほしい。
幼い頃からカトリックの聖職者に囲まれて育ってきたが、いまのBTSを見ていると聖職者以上に正しい存在であることを周囲から求められているように見えて、そんな重荷を彼らに背負わせてよいのかと思うことがある。彼らのデビュー前の映像(BTS LOG)を見ていると特にそういう気持ちが募る。
今後万が一メンバーたちに何かがあっても、ファンたちは裏切られたと思うのではなくて、その人間らしさに涙して喜んでほしいと願う。誰でも誰かの「アンパンマン」になれるけど、彼らにだけそれを求め続けるのはフェアじゃない。
ハフポストに推し活とBTSについての記事を寄稿しました。思わずメンバーへの愛が溢れてしまいましたが、ARMYには社会を見る解像度を高めるチャンスがあると私は思っています。まだ彼らの魅力と出会っていない方にも読んでいただければ。 twitter.com/HuffPostJapan/…
推しが間違ったときにはちゃんと声を上げてそれを指摘すべきという風潮が嫌い。推す行為の危うさが端的に顕れてる。記事でも書いたけど、それは推しという他者を使用することで主体化しようとする自分への無自覚さの現れ。それぞれが胸に秘めて考えればいいこと。 huffingtonpost.jp/entry/story_jp… twitter.com/tobatoppers/st…
アイドルなんてそんなもんでしょという見方があってもしかたないと思う。それが資本主義なんだから。でも、自分が正しいと思ってこういう声を上げる人たちは、自分の雑さはいつまでも棚に置いたままだから。
自分が楽しみたいときは愛でておいて、自分が違和感を感じたときには叩いたり嘆いたりするのって、一人の人間に対する扱いとしてはすごく雑だし、ほんと推しって都合がいい存在なんだなと思います。そうやって自分がアイドルをまさに消耗品として消費してることくらい自覚しておいた方がいい。
ツイートに反応してくださるのも嬉しいですけど、こちら読んでください。全部書きました。 huffingtonpost.jp/entry/story_jp… BTSはいかにしてARMYに愛され、ARMYに何を与えたか。「推し活」で自分を愛し、世界とつながる
@Xj1FxNG0Tv1QhrU に🎈さんご紹介ありがとうございます。こちらのツイート伸びてるみたいなので、ジミンのフィルターの話のところ、そのまま貼っておきます。
相手を論破する、論破できるって思ってる輩は、最初から相手を読解する構えを毀損してるから本当に話にならない。マウント取りのさもしい世界が彼らのリアルで、そのリアルしか知らないから、相手を巻き込んでやりたい放題踏み躙っていることに気づかない。漱石の「行人」はそのあたりが主題だ。
BTSをはじめとするK-POPアーティストは精神的にも表現の面でも母国(HOME)のリアリティに根ざしているし、それがグローバル戦略としても正しいということを理解していない。 > 「僕らは母国には帰らない。その覚悟でアメリカに来ている」/ BTS(も)志は同じだろう。 newsweekjapan.jp/amp/stories/wo…
「寄り添いすぎ」の結果、思春期の子供に拒否された親はたびたび子供への「寄り添い」を突如やめる。逆切れである。適度に寄り添うことが必要だったのにそれ自体を放り投げてしまう。放り投げた結果、いつも不機嫌で何か言いたげな祟り神(キングボンビー)と化し、子供の人生の袖を引っ張り続ける。
他人や推しを、いい人、やさしい人と持ち上げる人は多い。でも言われた側が複雑な気持ちになるのは、多かれ少なかれ誰もが「善くありたい」と切望する一方で自分の裡にある悪の手触りをジリジリと感じ続ける引き裂かれた存在だから。一面的なレッテル貼りは、それがたとえ良いことであっても苦しい。
学校で琵琶湖は習うけどこんなところがあるとか習わないから、やっぱり行ってみたほうがいいね。
Filterだけでなく最近の曲はファンに再考を促すようにも読める歌詞が散見されて、シュガのSeesawだってファンが「推しのため」と言いながら過剰な干渉をすることに対する批判としても読める。意味はあくまで多義的だけどそうも読めるように敢えて作ってるはず。そしてFilterもSeesawも新アルバムに入る twitter.com/Xj1FxNG0Tv1Qhr…