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勝頼は戦いこそ武田家の本懐ゆえ「戦って滅ぶことを選ぶ」言いますが、信玄の言葉を履き違えていますね。信玄は民が家臣が生きるために覇道を選んだのであり、自身の名誉や思想のためではなかった。穴山信君が「人心が離れまする」の言葉と共に真っ先に離れる人心になるのは宜なるかな。
#どうする家康
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やっと「私はもう、誰も殺したくはありません」と上に本音を言えた信康が、その後、元来優しい家康と夢に向かい、様々に語らう場面の二人の表情。ようやく父子として打ち解けた自然さが良かったですね。
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家康が瀬名と信康を逃そうとするくだりは、瀬名を斬首した野中重政に
家康が「おなごの事なれば計らひ方もあるべきを」と命を助けなかったことを責めたという「実紀」(徳川実紀)の記述を受けてのもの。史料を踏まえた秀逸な脚色でしたね。
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家康の後半生では重要な阿茶局の配役が未発表ですが、築山事変の1979年には家康に召されているんですよね…まさか…勝頼の元を去った望月千代女が名と素性を変え、阿茶局として家康に力添えする展開とか?伊賀越えにも付き合い、交渉術にも長けた人ですし…考え過ぎですかね😁❓️❓️
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家康の優しさと弱さの象徴たる木彫りの白兎は瀬名の願いと共に託されたが、瀬名だけが知る「泣き虫弱虫洟たれ」という家康の一部は彼女と共に永遠に彼岸へ旅立ったかもしれない。瀬名の「いつか必ず取りにきてください」が叶うのは、家康が「戦のない世」を実現し彼岸へ旅立つ時か。
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家康が海老すくいを踊り周りから嘲笑されましたが、これは後年、聚楽第で開かれた秀吉の能楽の宴で太った家康が「舟弁慶」で義経を舞い、笑いを取ったという逸話の引用ですよね。
この逸話は、バカな振りをして相手を油断させる家康の老獪さとして評されることもあります。
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家康が駿河支配を氏真に任せたいと言い出したのは、唐突なことではなく、高天神城攻めで氏真を諏訪原城の名目上の城主にするといったことをしているからです。今川家の力は意味があるんですね。
その件を信長との手切れを家康が決心するための腹芸と繋げたのが脚本的に巧いですね。
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