小津安二郎『東京物語』で東山千栄子が原節子の家に泊まった翌朝のシーン。わずか15秒の間に手前と奥で二人の人物が①画面を横切る②振り向く③物を拾うという身振りを一致させる。小津的ローポジション&フィックスの静謐な画面が活力を帯びる瞬間。この後に起こる名場面の絆を予見する見事な演出。
藤井風は本当に世界で通用するアーティストだ。宇多田ヒカル以降ようやく本格的な歌手が現れた。海外で活躍するバンドやグループはいるが藤井風は別格。岡山のローカリズムとブラックミュージックを身体化したグローバルな歌唱とグルーヴの融解、宗教的な詞の世界観が国境を超えて癒しを与えるだろう。 twitter.com/Kyohhei99/stat…
東工大の学生が手に取れるよう大学図書館に寄贈しようと持っていったら「寄贈は必ずしも受け入れられるわけじゃなくこちらで取捨選択します。趣味の本などは受け入れられません」と言われた。「授業の参考書にもあげるので学生にとっていいかと」と言ってもそう決められてるのだと。なのでやめました。
「伏線回収」がやたら使われるようになった。「伏線回収の物語論」という研究はありうる。無論昔からあるが明らかに近年「伏線回収の快楽」が重宝されすぎで(多分デジタル化と無関係ではないが)ジャンルを超えて鏤められた謎が解けたり、バラバラのものが一致したりする「だけ」で喜ぶ観客性がある。
年々読むレポートが「ネット記事の語り口」になっていく傾向がとまらない。たぶん本当に本を読まなくなっている。近年は本にもネット口調のものが溢れているし。この問いかけ、語りかけてくる文体は、移動ショットがやたら多い最近の映像文化にも通ずるところがあると思う。
ファンというのはカリスマ性に陶酔し、圧倒される受動性があるが、「推し」というのは対象へと一歩踏み込んで「支えている」「変えられる」「関係する」という能動性があり、きわめてSNS時代的なモードのような気がする。ぼくも「推し」の気持ちってさっぱりわからない。だから気になっている。
【報告】『椎名林檎論──乱調の音楽』(文藝春秋)が書籍化されます。『文學界』に14回かけて連載してきたものを加筆修正し、新たに序章と終章を書き下ろして、16章構成の重厚な本になりました。400頁弱あって2200円(税込)、10月11日刊行予定です。よろしくお願いいたします! twitter.com/Kyohhei99/stat…
昨日の書評の件で、これは書評じゃなく個人の感想、本当に推す気があるのか、といったツイートを見たが、そもそも書評は「推す」ものじゃない。必ずしも褒めなければならないものではなく、ちゃんとした作法のもと批判して一向に構わない。昨今の推しブームで書評は「推す」ものと勘違いされては困る。
学生にオープンアクセスの紀要ばかりが読まれ、査読付き論文(学会誌)が参照されない問題。最近かなり学会誌も電子版が公開されている印象。問題は査読の制度をはじめとして紀要や学会誌の違いが理解できていないケースが多く「CiNii→機関リポジトリ→紀要」で気軽に参照するケースが多い気がする。
蓮實重彦は「救い」となる映画はあるかもしれないが「救い」を求めて映画を見に行ってはならないと断ずる——「映画を見る際に重要なのは、自分が異質なものにさらされたと感じることです。自分の想像力や理解を超えたものに出会った時に、何だろうという居心地の悪さや葛藤を覚える」
人文系の大学院では一人で本を読み、一人で研究を進めるのが当然だと思っている人がいる。僕も最初はそう思っていたが、実際にやってきたことは一緒に本を読んで理解を深め、研究発表の場を作りアイデアやコメントを出しあう。つまり協働で研究を進める。しかもゼミなど大学を超えて学ぶことも大事。
修士から博士への進学で生活が苦しくなり研究できないリスクを考えて研究を継続したいと思いながらも「一旦働く」選択をする人が日本には結構いる。実際、僕の研究室でも優秀にもかかわらず、経済的事情で研究の道を離れた人がいた。博士とその後の支援を拡充しないと日本のアカデミアは衰退しかない。
本日2月5日に発売の『文學界』(2021年3月号)で新連載「椎名林檎論——乱調の音楽」が開始。歌詞、楽曲、歌唱、時代とさまざまな側面から「演奏的・実践的」な音楽批評を試みます。第1回は主に『無罪モラトリアム』の楽曲分析になっていますが今後は椎名林檎だけでなく東京事変も分析していきます。
加えて言えば、作品分析も「SNS的な切り取り批評」になっていることもあって(まさにTwitter的な文脈無視の批評)これは非常に心配。女性の胸や足を映したら悪。映画でいえばショットの編集など複数の要素で意味づけられるはずが、切り取り批評においては作家の批評性が徹底して見落とされてしまう。
昔はつまらない講義がたくさんあった。適当に聞き流して本を読んだりできたし、いい意味で「自由」と「ゆとり」があった。昨今の授業は課題や対話をどんどんやらせて学生もそんな余裕はない。オンライン化でさらに加速化し、沈黙は授業から葬り去られた。効率よく情報を詰め込む予備校のようになった。
大学へ「退屈さ」や「ゆとり」を取り戻すこと。などと言ったら反発を買うのだがLMSで隅々まで管理が行き届き、学生も息苦しいだろうと思う。RTのように「大学ってもっと自由だと思った」「高校と何が違うの」って感想は心が痛む。もっと管理から解放された「余白」が必要なのは間違いないだろう。
藤井風の新譜『LOVE ALL SERVE ALL』は名盤だ。歌の表現力が一段と凄まじい。ローカル/グローバルの弁証法とでもいうべき音の和洋混淆と詞の俗世を超えた世界観。『まつり』のサウンドが素晴らしく『やば。』は本当にヤバい。初回盤のカヴァーはブリトニー・スピアーズ『Overprotected』が特にいい。
今日、東工大大学院の表象文化論の授業で投票機能を使い「ヒッチコックという名前を聞いたことがある?」と質問したら39%が「ある」、「ヒッチコック映画を観たことがある?」と質問したら5%が「ある」だった。映像に興味がある学生でサンプルは159名。これを「ヒッチコック5%問題」と名付けておく。 twitter.com/Kyohhei99/stat…
大学教員、雑誌の編集で多忙なのは副業で稼ぐためだとか論文投稿して印税が入るとか思われてるのか。投稿するのに金払ったり、学術書出しても一銭も入らないことありますよ。アンソロジーの依頼とか原稿料なしが当然みたいな。ぼく雑誌の原稿料の5~10倍は資料代に消えていくし多分時給100円位…。
修論執筆がピークを迎えるが、メンタルのケアだけは最優先してほしい(無論体の健康も疎かにしてはいけない)。研究はいつでもできるが一度心を病むと研究自体が苦痛になり回復にも時間を要する。特にこの2年コロナ禍で思いのほか負荷がかかっているはず。心の健康を害してまで頑張りすぎなくていい。
昔は本も「3回読書」という読み方を実践していた。1回目は重要そうなところに手当たり次第、付箋を貼りながら読む。2回目はその付箋で必要ないところを剥がしながら読む。3回目は残った付箋を中心にノートにまとめながら読む。そうするとかなりのことが整理されて頭に入ってくる。
東大で青山真治が映画の講義をした2005年、ヒッチコックの『サイコ』を観たことがあるかを問うた時に2割しかいなかったといういわゆる「『サイコ』20%問題」、2020年の現在聞いたら「『サイコ』0%問題」になるかもという危機感。今度「ヒッチコックという名前を聞いたことがあるか」と尋ねてみよう。
明日から授業開始。学びを始めるにあたってとりわけ新入生は「役に立つ/役に立たない」という価値観から解放されてほしい。他人から「それ何の役に立つの?」と言われることもあるかもしれない。だが、学び、経験したことがいつどのように役立つかは誰にもはかれない(自分さえも予測できない)。
優れた批評家・研究者は本当に問いを立てるのがうまい。たとえば、ある作家を対象にして論文を書くとしたら、その問いを解明すると作家や作品のことだけでなく、産業のことやジャンルのことなど色んなことがわかるようなものを設定する。膨大な先行研究と作品を知っていないと問いは立てられない。
NHK Eテレ「#思考ガチャ!」をご覧いただいた皆様、ありがとうございました。収録もとても楽しくもっと議論したいテーマでした。見逃した方は再放送(3月21日午後2:30~)があるので是非! MC #阿部亮平 #エルフ荒川 出演 #北村匡平 #小林晋平 #所千晴 ナレーション #梶裕貴 nhk.jp/p/ts/QJ4W13PP7…