【悲報】妻不在で子供と過ごしていたら小学2年の娘に「ねぇ、ママが結婚するなら大学の先生はやめといたほうがいいよって言ってたよ(笑)夜も土日も働いてるし、理屈っぽいし、すぐ批判してくるし、一つのことに執着して面倒臭いって(←ここ意訳)」と告げ口がありました。 ※教員によって差あり
地味な作品だが『半世界』(阪本順治)は炭焼き職人を演じた稲垣吾郎の静謐な佇まい、池脇千鶴のくたびれた生活臭、長谷川博己の苦悩と狂気が、見事に映像的な空間に描写された素晴らしい映画だ。役者もその土地にいる人物としてちゃんと成立し、阪本監督の円熟した技術を感じさせられた作品だった。
話題の学習院大学学生の自分への謝辞──「私は素晴らしい学績を納めたので「おかしい」ことを口にする権利があった」 ネオリベの中で育てあげてしまった「強者」の論理。努力しない/能力のない「弱者」の口を封じること。このような選民的思考を育てないように、教育は授けられなければならない。
はい、今年もレポートで散見事案。 ・本文中いきなり「箇条書き」開始 ・段落頭一字下げしない ・段落と段落の間に一行あけ改行 ・wikiを論拠にするのやめてくれ ・結論で「まとめると〜」(雑だ) ・教員に提出するレポートの冒頭「皆さんは〇〇をご存知だろうか?」で始まる←年々増えていってます
理工系大学で芸術の授業をすることで悶々するのは歴史的無意識や作家の無意識を探る営為が全く通じないケースが多いこと。人文学系だとこういう辛さはほとんどない印象だが、毎年作家の意図は作家に聞かなければわからない、作家の影響関係は作家が公言してないとわからないと当然のように反応がくる。
「戦争を知らない子供たち」として『はだしのゲン』を読み、『火垂るの墓』を観て育ったわれわれ世代と、『永遠の0』や『この世界の片隅に』を観て育つ現代っ子では「戦争」の印象がかなり異なるだろうな。子供に『野火』をいつ見せようか迷うところ。
大学をずっと見ていると、こちらの教養レベルに合わせろという意識が主流になってきたように感じる。合わせられないのはお前の能力の問題だと上から評価を下す。明らかにわかりやすく簡潔に伝える技術が重宝されるようになったのはネットからSNSの流れがあるが、それは教養や知性とは呼ばない。
近年の大学教育では、問題を見つけて「問いを立てる」ことが大事だと言われる。だが、いきなり言われてできるわけがない。膨大な量の読書を通して知識と教養を身につけなければ「問い」は立ち上がらない。そもそもどのような「問い」が面白いかわからない。
2000字程度のレポートに1万1千字以上書いてくる1年生。ネット記事だけでなく何冊も本を読んで脚注20個以上もつけて提出してくる学生。こういう学生は将来必ず伸びる。たった1単位の授業に異様というくらいエネルギーを注ぎこむ。東工大にはこんな学生がいる。めちゃくちゃ嬉くて誇らしい。
大学で人文学を学んでも「役に立たない」と言われることがある。だが、大学で学んだ哲学や文学、美術史や映画が生きるのに計り知れないほど「役立っている」ことを日々実感する。むろん研究生活のことではなく「生」それ自体においてである。感受性を鍛え上げることこそ豊かな「生」の獲得に繋がる。
大学教員、雑誌の編集で多忙なのは副業で稼ぐためだとか論文投稿して印税が入るとか思われてるのか。投稿するのに金払ったり、学術書出しても一銭も入らないことありますよ。アンソロジーの依頼とか原稿料なしが当然みたいな。ぼく雑誌の原稿料の5~10倍は資料代に消えていくし多分時給100円位…。
段落頭の1字下げや段落と段落の間の改行をしないで書くことを授業で話したら、なぜ1字下げする必要があるのか、段落の改行も見やすくするための工夫だ、ネット記事の書き方で文章を書いて何が悪いのか、昔の文章形式になぜこだわるのか、というコメントがきた。人生初、ついにきたかという感じ。
東大で青山真治が映画の講義をした2005年、ヒッチコックの『サイコ』を観たことがあるかを問うた時に2割しかいなかったといういわゆる「『サイコ』20%問題」、2020年の現在聞いたら「『サイコ』0%問題」になるかもという危機感。今度「ヒッチコックという名前を聞いたことがあるか」と尋ねてみよう。
本日2月5日に発売の『文學界』(2021年3月号)で新連載「椎名林檎論——乱調の音楽」が開始。歌詞、楽曲、歌唱、時代とさまざまな側面から「演奏的・実践的」な音楽批評を試みます。第1回は主に『無罪モラトリアム』の楽曲分析になっていますが今後は椎名林檎だけでなく東京事変も分析していきます。
年々読むレポートが「ネット記事の語り口」になっていく傾向がとまらない。たぶん本当に本を読まなくなっている。近年は本にもネット口調のものが溢れているし。この問いかけ、語りかけてくる文体は、移動ショットがやたら多い最近の映像文化にも通ずるところがあると思う。
新年度が始まる。新たに修士・博士課程に入って研究を進める人たちに言っておきたい。もっとも大事なのは研究成果ではなく心身の健康を保つこと。研究はいつでもやろうと思えばできるが(僕は30歳で修士)特にメンタルを崩すと回復が難しいケースが多い。研究自体楽しめなくなる。どうか心の健康を。
椎名林檎「1年に1枚という邦楽の狂ったサイクルに縛られるつもりは毛頭ないです。足りないもの(音楽)を作るのが私の仕事だと思ってるので。私が作らなくなるのは、世の中に素晴らしい音楽がいっぱいあると、私自身がユーザーとして思ってる時なんだと思ってます」って痺れるな。
ここ数年で強く思うようになったが、本を全体として論理的に読めなくなっている人が増えているような印象を受ける。切り取ってその部分しか理解していない。それが全体であるかのように歪曲して解釈する。コンテクストや繋がりが読めない。SNSとまったく同じ読み方。これはかなり問題だと思う。
ファンというのはカリスマ性に陶酔し、圧倒される受動性があるが、「推し」というのは対象へと一歩踏み込んで「支えている」「変えられる」「関係する」という能動性があり、きわめてSNS時代的なモードのような気がする。ぼくも「推し」の気持ちってさっぱりわからない。だから気になっている。
3校にいたる過酷な校正・校閲の目をかいくぐってきた君の生命力の高さを褒め称えたい。よく生き抜いた。
学生にオープンアクセスの紀要ばかりが読まれ、査読付き論文(学会誌)が参照されない問題。最近かなり学会誌も電子版が公開されている印象。問題は査読の制度をはじめとして紀要や学会誌の違いが理解できていないケースが多く「CiNii→機関リポジトリ→紀要」で気軽に参照するケースが多い気がする。
修論執筆がピークを迎えるが、メンタルのケアだけは最優先してほしい(無論体の健康も疎かにしてはいけない)。研究はいつでもできるが一度心を病むと研究自体が苦痛になり回復にも時間を要する。特にこの2年コロナ禍で思いのほか負荷がかかっているはず。心の健康を害してまで頑張りすぎなくていい。
今日、何度繰り返しこの動画を見ただろう。後景・中景・前景とすべてにおいてドラマがあり、細部が圧倒的な情報量を放っている。構図も素晴らしい。日常的な光景の中で、最後の審判のような終末を感じさせ、救済が訪れる。完全に映画を超えている。 twitter.com/TheFigen/statu…
大学も同じで何も高校卒業してすぐに進学する必要はないと思う。僕は20代半ばで大学に行きたいと思って勉強を始めた。だから大学ではどの授業も楽しかった。修士課程に入ったのは30代になってからだった。学びたくなった時に行った方が絶対に楽しく実りある時間を過ごせる。
学生の書く論文に年々ポリコレ的な批評が散見されるようになってきている。もちろんこういう視点は重要。だが、これで批評したことになっているケースもある。それからフィクション=虚構/現実の境界がなく、映画が現実社会と地続きに捉えられ、どう描くのが正しくて何が悪かの価値判断も多い。