本日2月5日に発売の『文學界』(2021年3月号)で新連載「椎名林檎論——乱調の音楽」が開始。歌詞、楽曲、歌唱、時代とさまざまな側面から「演奏的・実践的」な音楽批評を試みます。第1回は主に『無罪モラトリアム』の楽曲分析になっていますが今後は椎名林檎だけでなく東京事変も分析していきます。
東大で青山真治が映画の講義をした2005年、ヒッチコックの『サイコ』を観たことがあるかを問うた時に2割しかいなかったといういわゆる「『サイコ』20%問題」、2020年の現在聞いたら「『サイコ』0%問題」になるかもという危機感。今度「ヒッチコックという名前を聞いたことがあるか」と尋ねてみよう。
段落頭の1字下げや段落と段落の間の改行をしないで書くことを授業で話したら、なぜ1字下げする必要があるのか、段落の改行も見やすくするための工夫だ、ネット記事の書き方で文章を書いて何が悪いのか、昔の文章形式になぜこだわるのか、というコメントがきた。人生初、ついにきたかという感じ。
大学教員、雑誌の編集で多忙なのは副業で稼ぐためだとか論文投稿して印税が入るとか思われてるのか。投稿するのに金払ったり、学術書出しても一銭も入らないことありますよ。アンソロジーの依頼とか原稿料なしが当然みたいな。ぼく雑誌の原稿料の5~10倍は資料代に消えていくし多分時給100円位…。
大学で人文学を学んでも「役に立たない」と言われることがある。だが、大学で学んだ哲学や文学、美術史や映画が生きるのに計り知れないほど「役立っている」ことを日々実感する。むろん研究生活のことではなく「生」それ自体においてである。感受性を鍛え上げることこそ豊かな「生」の獲得に繋がる。
2000字程度のレポートに1万1千字以上書いてくる1年生。ネット記事だけでなく何冊も本を読んで脚注20個以上もつけて提出してくる学生。こういう学生は将来必ず伸びる。たった1単位の授業に異様というくらいエネルギーを注ぎこむ。東工大にはこんな学生がいる。めちゃくちゃ嬉くて誇らしい。
近年の大学教育では、問題を見つけて「問いを立てる」ことが大事だと言われる。だが、いきなり言われてできるわけがない。膨大な量の読書を通して知識と教養を身につけなければ「問い」は立ち上がらない。そもそもどのような「問い」が面白いかわからない。
大学をずっと見ていると、こちらの教養レベルに合わせろという意識が主流になってきたように感じる。合わせられないのはお前の能力の問題だと上から評価を下す。明らかにわかりやすく簡潔に伝える技術が重宝されるようになったのはネットからSNSの流れがあるが、それは教養や知性とは呼ばない。
「戦争を知らない子供たち」として『はだしのゲン』を読み、『火垂るの墓』を観て育ったわれわれ世代と、『永遠の0』や『この世界の片隅に』を観て育つ現代っ子では「戦争」の印象がかなり異なるだろうな。子供に『野火』をいつ見せようか迷うところ。
理工系大学で芸術の授業をすることで悶々するのは歴史的無意識や作家の無意識を探る営為が全く通じないケースが多いこと。人文学系だとこういう辛さはほとんどない印象だが、毎年作家の意図は作家に聞かなければわからない、作家の影響関係は作家が公言してないとわからないと当然のように反応がくる。
はい、今年もレポートで散見事案。 ・本文中いきなり「箇条書き」開始 ・段落頭一字下げしない ・段落と段落の間に一行あけ改行 ・wikiを論拠にするのやめてくれ ・結論で「まとめると〜」(雑だ) ・教員に提出するレポートの冒頭「皆さんは〇〇をご存知だろうか?」で始まる←年々増えていってます
話題の学習院大学学生の自分への謝辞──「私は素晴らしい学績を納めたので「おかしい」ことを口にする権利があった」 ネオリベの中で育てあげてしまった「強者」の論理。努力しない/能力のない「弱者」の口を封じること。このような選民的思考を育てないように、教育は授けられなければならない。
地味な作品だが『半世界』(阪本順治)は炭焼き職人を演じた稲垣吾郎の静謐な佇まい、池脇千鶴のくたびれた生活臭、長谷川博己の苦悩と狂気が、見事に映像的な空間に描写された素晴らしい映画だ。役者もその土地にいる人物としてちゃんと成立し、阪本監督の円熟した技術を感じさせられた作品だった。
【悲報】妻不在で子供と過ごしていたら小学2年の娘に「ねぇ、ママが結婚するなら大学の先生はやめといたほうがいいよって言ってたよ(笑)夜も土日も働いてるし、理屈っぽいし、すぐ批判してくるし、一つのことに執着して面倒臭いって(←ここ意訳)」と告げ口がありました。 ※教員によって差あり