博士院生(博士を目指す修士含む)にはとにかく研究と論文執筆の時間を確保し、学会誌に投稿して査読論文を書くことを最優先するよう指導している。人付き合いも大事だが学会や研究会で発表しすぎない、目先の商業媒体に書きすぎない、先生の論集本の仕事は受けすぎない(これは賛否両論あると思う)。
『椎名林檎論──乱調の音楽』(文藝春秋)の書影が公開されました。シンプルで硬派なデザイン。帯のコピーがエモいです。本書を開くとある仕掛けがあるので、紙媒体でお読みいただけると嬉しいです。版元のページに担当編集者のメッセージが掲載されています。10月11日刊行、2200円(税込)、何卒!
作家は自身の作品についてあまり多くを語らないほうがいいし、何を描いたかを細かく解説しないほうがよい。作者にも制御できない細部の連関や無意識に表出した豊潤なテクストが「作者の意図」によって縮減してしまう。多様な読解可能性を奪うことは創作物にとっても決してよいことではないだろう。
明日から授業開始。学びを始めるにあたってとりわけ新入生は「役に立つ/役に立たない」という価値観から解放されてほしい。他人から「それ何の役に立つの?」と言われることもあるかもしれない。だが、学び、経験したことがいつどのように役立つかは誰にもはかれない(自分さえも予測できない)。
大学教員、雑誌の編集で多忙なのは副業で稼ぐためだとか論文投稿して印税が入るとか思われてるのか。投稿するのに金払ったり、学術書出しても一銭も入らないことありますよ。アンソロジーの依頼とか原稿料なしが当然みたいな。ぼく雑誌の原稿料の5~10倍は資料代に消えていくし多分時給100円位…。
加えて言えば、作品分析も「SNS的な切り取り批評」になっていることもあって(まさにTwitter的な文脈無視の批評)これは非常に心配。女性の胸や足を映したら悪。映画でいえばショットの編集など複数の要素で意味づけられるはずが、切り取り批評においては作家の批評性が徹底して見落とされてしまう。
大谷翔平、インタビュアーがこれからますます日本の野球が注目されていきますねといったら、日本だけじゃなくて韓国、台湾、中国の人たちにも野球を好きになってもらいたいって答えるのさすがだなと思った。見ている世界が全然違う。
岸政彦さんのこのご指摘とても重要。いま多くの大学で人を対象とした調査は研究倫理審査が必要になっていて、このやり取りが非常にストレスフル。この前、質的調査で聞き取りをする予定だった学生の書類が「対象人数が5人でどうやってコミュニティが論じられるのですか?」と突き返されたことがある。
CZUR Aura Proというオーバーヘッド型ブックスキャナーが凄すぎる。見開き2ページがわずか2秒でスキャンでき、すぐにPDFにしたりOCR(対応言語180以上)かけてWordに変換したりできる。自動補正機能もあり、指サックとフットペダルで綺麗に保存可能。これはアカデミアの革命といっても過言ではない。
東大で青山真治が映画の講義をした2005年、ヒッチコックの『サイコ』を観たことがあるかを問うた時に2割しかいなかったといういわゆる「『サイコ』20%問題」、2020年の現在聞いたら「『サイコ』0%問題」になるかもという危機感。今度「ヒッチコックという名前を聞いたことがあるか」と尋ねてみよう。
大学をずっと見ていると、こちらの教養レベルに合わせろという意識が主流になってきたように感じる。合わせられないのはお前の能力の問題だと上から評価を下す。明らかにわかりやすく簡潔に伝える技術が重宝されるようになったのはネットからSNSの流れがあるが、それは教養や知性とは呼ばない。
映画系の授業(表象文化論)で東工大生162名(9名無回答)に「日本映画の巨匠」(黒澤明、小津安二郎、溝口健二、成瀬巳喜男、木下惠介)で名前を聞いたことがある人というアンケートを実施(複数回答あり)。 1. 黒澤(94.1%) 2. 溝口(16.3%) 3. 小津(15.7%) 4. 成瀬(4.6%) 4. 木下(4.6%)
この傾向はもっと加速すること間違いない。どうすればいいか頭を抱えている。J-Stageなどオープンソースになった学会誌の査読論文に(紀要などとの違いを伝えつつ)促すことはできるが、電子書籍を簡単に購入できない/しない学生を、足を運んで本を手に取り読むというところまで持っていくのが難関。
今日、東工大大学院の表象文化論の授業で投票機能を使い「ヒッチコックという名前を聞いたことがある?」と質問したら39%が「ある」、「ヒッチコック映画を観たことがある?」と質問したら5%が「ある」だった。映像に興味がある学生でサンプルは159名。これを「ヒッチコック5%問題」と名付けておく。 twitter.com/Kyohhei99/stat…