昔は本も「3回読書」という読み方を実践していた。1回目は重要そうなところに手当たり次第、付箋を貼りながら読む。2回目はその付箋で必要ないところを剥がしながら読む。3回目は残った付箋を中心にノートにまとめながら読む。そうするとかなりのことが整理されて頭に入ってくる。
近年の大学教育では、問題を見つけて「問いを立てる」ことが大事だと言われる。だが、いきなり言われてできるわけがない。膨大な量の読書を通して知識と教養を身につけなければ「問い」は立ち上がらない。そもそもどのような「問い」が面白いかわからない。
人文系の大学院では一人で本を読み、一人で研究を進めるのが当然だと思っている人がいる。僕も最初はそう思っていたが、実際にやってきたことは一緒に本を読んで理解を深め、研究発表の場を作りアイデアやコメントを出しあう。つまり協働で研究を進める。しかもゼミなど大学を超えて学ぶことも大事。
【報告】『椎名林檎論──乱調の音楽』(文藝春秋)が書籍化されます。『文學界』に14回かけて連載してきたものを加筆修正し、新たに序章と終章を書き下ろして、16章構成の重厚な本になりました。400頁弱あって2200円(税込)、10月11日刊行予定です。よろしくお願いいたします! twitter.com/Kyohhei99/stat…
大学では「批判的思考力」を養えと言われるが、これは揚げ足を取って優越的立場を得たり、他人を論破したりする力を培い競争を優位に進める戦略ではない。自分が前提としている思考を疑って、身につけてきた価値観を取っ払い、当然と思われている社会通念を問い直すこと、いわば視座を複数化する力だ。
ここ数年で強く思うようになったが、本を全体として論理的に読めなくなっている人が増えているような印象を受ける。切り取ってその部分しか理解していない。それが全体であるかのように歪曲して解釈する。コンテクストや繋がりが読めない。SNSとまったく同じ読み方。これはかなり問題だと思う。
蓮實重彦は「救い」となる映画はあるかもしれないが「救い」を求めて映画を見に行ってはならないと断ずる——「映画を見る際に重要なのは、自分が異質なものにさらされたと感じることです。自分の想像力や理解を超えたものに出会った時に、何だろうという居心地の悪さや葛藤を覚える」
本日2月5日に発売の『文學界』(2021年3月号)で新連載「椎名林檎論——乱調の音楽」が開始。歌詞、楽曲、歌唱、時代とさまざまな側面から「演奏的・実践的」な音楽批評を試みます。第1回は主に『無罪モラトリアム』の楽曲分析になっていますが今後は椎名林檎だけでなく東京事変も分析していきます。
「伏線回収」がやたら使われるようになった。「伏線回収の物語論」という研究はありうる。無論昔からあるが明らかに近年「伏線回収の快楽」が重宝されすぎで(多分デジタル化と無関係ではないが)ジャンルを超えて鏤められた謎が解けたり、バラバラのものが一致したりする「だけ」で喜ぶ観客性がある。
3月15日夜10時放送のNHK Eテレ「思考ガチャ!」 HPにMCの阿部亮平(SnowMan)さんとエルフ荒川さん、ゲスト研究者の写真が本日アップされました。お知らせ欄の右にある▽マークをタップすると以下の素敵な写真が見れますので是非。全員でハッシュタグポーズも決めました。nhk.jp/p/ts/QJ4W13PP7…
学生の書く論文に年々ポリコレ的な批評が散見されるようになってきている。もちろんこういう視点は重要。だが、これで批評したことになっているケースもある。それからフィクション=虚構/現実の境界がなく、映画が現実社会と地続きに捉えられ、どう描くのが正しくて何が悪かの価値判断も多い。
ファンというのはカリスマ性に陶酔し、圧倒される受動性があるが、「推し」というのは対象へと一歩踏み込んで「支えている」「変えられる」「関係する」という能動性があり、きわめてSNS時代的なモードのような気がする。ぼくも「推し」の気持ちってさっぱりわからない。だから気になっている。
優れた批評家・研究者は本当に問いを立てるのがうまい。たとえば、ある作家を対象にして論文を書くとしたら、その問いを解明すると作家や作品のことだけでなく、産業のことやジャンルのことなど色んなことがわかるようなものを設定する。膨大な先行研究と作品を知っていないと問いは立てられない。
年々読むレポートが「ネット記事の語り口」になっていく傾向がとまらない。たぶん本当に本を読まなくなっている。近年は本にもネット口調のものが溢れているし。この問いかけ、語りかけてくる文体は、移動ショットがやたら多い最近の映像文化にも通ずるところがあると思う。
大学も同じで何も高校卒業してすぐに進学する必要はないと思う。僕は20代半ばで大学に行きたいと思って勉強を始めた。だから大学ではどの授業も楽しかった。修士課程に入ったのは30代になってからだった。学びたくなった時に行った方が絶対に楽しく実りある時間を過ごせる。
修士から博士への進学で生活が苦しくなり研究できないリスクを考えて研究を継続したいと思いながらも「一旦働く」選択をする人が日本には結構いる。実際、僕の研究室でも優秀にもかかわらず、経済的事情で研究の道を離れた人がいた。博士とその後の支援を拡充しないと日本のアカデミアは衰退しかない。
ちなみに僕は高校を卒業して30種位のアルバイトをしながらフラフラ国内・海外を旅したり音楽活動をやったり好きな本を読んだり映画を制作したり観たりして暮らし、20代半ばで研究職を目指して大学に進学して本当によかったと思っている。人生には若い頃に何でも自由にやってみる期間が必要だと思う。
昔はつまらない講義がたくさんあった。適当に聞き流して本を読んだりできたし、いい意味で「自由」と「ゆとり」があった。昨今の授業は課題や対話をどんどんやらせて学生もそんな余裕はない。オンライン化でさらに加速化し、沈黙は授業から葬り去られた。効率よく情報を詰め込む予備校のようになった。
大学へ「退屈さ」や「ゆとり」を取り戻すこと。などと言ったら反発を買うのだがLMSで隅々まで管理が行き届き、学生も息苦しいだろうと思う。RTのように「大学ってもっと自由だと思った」「高校と何が違うの」って感想は心が痛む。もっと管理から解放された「余白」が必要なのは間違いないだろう。
藤井風のアリーナツアー最終日、横浜ファイナルの2月15日に偶然にも僕が寄稿した「手放すこと/受け取ること──藤井風の音楽における余白」(未来の人類研究センターのオンライン・ジャーナル『コモンズ』Vol.2所収)が刊行されました。 #藤井風アリーナツアー #藤井風LAAT fhrc.ila.titech.ac.jp/kanri/wp-conte…
学生にオープンアクセスの紀要ばかりが読まれ、査読付き論文(学会誌)が参照されない問題。最近かなり学会誌も電子版が公開されている印象。問題は査読の制度をはじめとして紀要や学会誌の違いが理解できていないケースが多く「CiNii→機関リポジトリ→紀要」で気軽に参照するケースが多い気がする。
昨日の書評の件で、これは書評じゃなく個人の感想、本当に推す気があるのか、といったツイートを見たが、そもそも書評は「推す」ものじゃない。必ずしも褒めなければならないものではなく、ちゃんとした作法のもと批判して一向に構わない。昨今の推しブームで書評は「推す」ものと勘違いされては困る。
蓮實重彦「サイレント映画を一本も見ていないような人が、映画監督になってはいけない。ところが、いまでは、映画の歴史も知らぬまま、ただただ映画を撮りたいというだけの男女が世界にあふれています。でも、画面を見ていれば、すぐにわかります、この人は無声映画を見たことがあるかどうか」に賛同!
NHK Eテレ「#思考ガチャ!」をご覧いただいた皆様、ありがとうございました。収録もとても楽しくもっと議論したいテーマでした。見逃した方は再放送(3月21日午後2:30~)があるので是非! MC #阿部亮平 #エルフ荒川 出演 #北村匡平 #小林晋平 #所千晴 ナレーション #梶裕貴 nhk.jp/p/ts/QJ4W13PP7…
修論執筆がピークを迎えるが、メンタルのケアだけは最優先してほしい(無論体の健康も疎かにしてはいけない)。研究はいつでもできるが一度心を病むと研究自体が苦痛になり回復にも時間を要する。特にこの2年コロナ禍で思いのほか負荷がかかっているはず。心の健康を害してまで頑張りすぎなくていい。