1930年3月15日、横浜の山下公園が開園しました。 関東大震災の復興事業として、市内のがれきなどを使って海を埋め立て造成されました。 写真は開園当初の山下公園です。
1945年5月14日、名古屋大空襲で名古屋城が焼失しました。 国宝に指定されていた名古屋城は天守や本丸御殿など主要建物の多くを焼失、襖、障子などは空襲直前に取り外され移動してあったため、一部は難を逃れました。 屋根瓦が銅板葺になっていたことから、城は青い炎を上げて燃えていたといいます。
1945年5月25日、B29爆撃機470機によって東京で空襲が行われ、3,651人の死者が出ました。 この空襲で天下三名槍の一つである御手杵が松平家所蔵の宝物とともに焼失してしました。 当主は槍を埋めるように言っていましたが、家人が宝物にそんな扱いはできないと無視していたことが仇になったようです。
1883年11月20日、天璋院篤姫が亡くなりました。 島津斉彬の養女として13代将軍徳川家定に嫁ぎ、明治維新後は16代当主徳川家達の養育にも力を注ぎました。 自分の所持金を切り詰めてでも元大奥関係者の就職、縁組に奔走し、死後に確認された財産は現在の価値で6万円ほどしかなかったといいます。
1893年12月5日、幕末の会津藩主であった松平容保が亡くなりました。 会津戦争後しばらくは朝敵として蟄居の身にありましたが、1872年には許され、その後は日光東照宮の宮司を務めました。 容保の曾孫にあたる徳川恒孝が徳川宗家に養子に入ったことで、現在の徳川宗家は容保の男系子孫となっています。
1940年8月8日、「戦艦大和」が呉海軍工廠にて進水しました。 しかし、機密保持の点から、進水式は公表されてませんでした。 式には久邇宮朝融王が臨席しましたが、一般客はおらず、工廠関係者たち約1000人に見守られながら静粛に執り行われました。 写真は、翌年呉工廠にて最終艤装中の大和です。
1872年6月12日、品川〜横浜駅間で日本初の鉄道が仮営業をはじめました。 新橋〜横浜駅間での正式開業は約4ヶ月後の10月となっています。 この鉄道は大評判となり、開業翌年には大幅な利益を計上しました。 写真は明治時代に撮影された品川駅の様子です。
1928年5月21日、野口英世が亡くなりました。 黄熱病や梅毒の研究で知られ、ノーベル賞候補に3度名前が挙がりました。 野口は名言をたくさん残しており、「過去を変えることはできないし、変えようとも思わない。人生で変えることができるのは、自分と未来だけだ」などは現代にも通じる言葉です。
1821年8月7日、伊能忠敬らが作成した日本地図「大日本沿海輿地全図」が幕府に献上されました。 見張るべきはその「正確さ」で、現代の地図と比較しても大きな誤差がありません。 近代的な測量技術と地図作成能力が、当時の日本にあったことを示す、歴史的な偉業であったといえます。
1936年5月18日、「阿部定事件」が起きました。 芸妓の阿部定が性行為中に愛人を絞め殺し、その男性器を切断し、懐に所持して逃亡した事件です。 その猟奇性ゆえに、事件発覚後および逮捕後に号外が出されるなど、世間に大きな衝撃を与えました。 二・二六事件と並ぶ「昭和11年の三大事件」の一つです。
明治時代に撮影された上野公園
1975年12月25日、子門真人の「およげ!たいやきくん」が発売され、空前のヒットを記録しました。 トータル売上は450万枚以上で、「日本の最も売れたシングル・レコード」としても有名です。 ちなみに子門はこの曲に関して、5万円の買取契約を結んでおり、印税契約は交わしていませんでした。
1933年2月24日、国際連盟総会で日本の満州での軍事行動が否定され、それを不当とした全権大使・松岡洋右は連盟脱退を宣言し退場しました。 採決は42対1で否決されましたが、日本世論は、 「向こうは死に(42)体でこっちは1番なんだ」 という風に、連盟脱退へ肯定的な風潮にありました。
今日は『新選組の日』です。 1863年2月27日に、徳川家茂の命で新選組の原点となる「浪士組」が結成されたことにちなみます。 清河八郎によって浪士組は京都に向かうも、清河が浪士組を天皇配下の兵にしようとする画策が発覚、浪士組は江戸に戻り、芹沢鴨、近藤勇ら残留組がのちの新選組となります。
1910年11月16日、横浜にて不二家が創業されました。 12月には日本で初めてクリスマスケーキ販売を開始し、1922年にはレストラン1号店を開業、日本初のショートケーキ販売を始めました。 マスコットキャラのペコちゃんは1950年に制定され、ミルキーなどの人気商品も同時期に販売開始されています。
1942年2月19日、ルーズベルト大統領が大統領令に署名し、日系人の強制収容が行われました。 この法令は「全ての敵性外国人に向けたもの」とされましたが、ドイツ、イタリア人収容者は短期間で釈放された一方、日系人収容は長期に及び、不動産、自動車など私有財産の放棄、売却も余儀なくされました。
教科書では絶対に見せない、大正時代の歌人与謝野晶子の笑顔の写真
【高杉晋作の残した言葉 】 “3年は軽挙妄動せず学問をしろ。 そのうちに活躍する時が必ず来る。 英雄は、普段は非人乞食となって潜り、いざという時に龍の如く振舞う。困ったと決して言うべきでない。困ったと言う時は死ぬ時である。どんな難局でも、何困らぬという気概でいれば、自ずと道が開ける”
今日は天皇誕生日(天長節)です。 大正時代は天皇誕生日による祝日が年2回ありました。 大正天皇の誕生日は8月31日ですが、気温が高く、式典を行うのが困難であることから、10月31日が天長節祝日とされ式典が行われました。 8月31日は何も行事はありませんが、祝日とされました。
文治5年4月30日、源義経が亡くなりました。 奥州藤原氏の庇護を受け育ち、頼朝の挙兵に参じて兵を率い、平氏を滅ぼしました。 しかし頼朝の許可なく官位を受けたこと、自立の動きを見せたことから追討の対象となり平泉に逃れますが、庇護者であった藤原秀衡の死後、藤原泰衡に攻められ自害しました。
日露戦争における日本の辛勝は、戦争遂行のための資金調達に成功したことが大きかったと言えます。 その資金調達に尽力した人物こそ、当時日銀総裁だった高橋是清でした。 交渉の末、戦費の約7割を、外債で賄うことに成功しました。 ちなみに、この外債の完済まで戦後の1986年までかかっています。
1889年2月11日、 大日本帝国憲法が発布されました。 近代日本で初めての憲法で、当時のプロイセンの憲法を基礎に制定されました。 また、この日に発行された官報号外『大日本帝国憲法』において、日付に関する誤字があり、流通した全てが自主回収されるという、官報史上最大の誤記事件が起きました。
唐船完成時点の登場人物の年齢(満年齢) 北条義時 54歳 北条政子 60歳 源実朝 24歳 千世 24歳 八田知家 75歳前後 三善康信 77歳 北条泰時 34歳 北条時房 42歳 大江広元 69歳 三浦義村 49歳 二階堂行政 77歳前後 後鳥羽上皇 36歳 慈円 61歳 丹後局 66歳前後 公暁 17歳 #鎌倉殿の13人
明治時代の初めごろに撮影された日本の風景