1853年1月29日、北里柴三郎が生まれました。 北里は破傷風の治療法である血清療法を発見しました。菌体を少量ずつ動物に注射しながら血清中に交代を生み出す画期的な手法でした。 北里はこの活躍によりノーベル賞候補となりますが、共同研究者のベーリングのみが受賞する結果となってしまいました。
後白河法皇は再建された東大寺の大仏開眼を、式の当日に急遽自らの手で行うと宣言し、周囲を慌てさせています。 開眼供養の一月前に京都は大きな地震に襲われ、余震も続いていたことから、周囲が地震を心配し止めたものの「階段が壊れて死んでも後悔はしない」と聞き入れませんでした。 #鎌倉殿の13人
建国記念日は、戦前は神武天皇の即位日である紀元節という祝日となっていました。 1940年は皇紀2600年にあたり、11月に紀元二千六百年式典が盛大に行われました。 しかし、式典終了後は戦争中であったことから、式典ポスターが一斉に「さあ働こう」に張り替えられたようです。
文覚は暗殺未遂事件に連座し、佐渡へ流罪とされ、約2年後に許されて帰京します。 文覚は平家一門の平維盛の子、六代を匿っていましたが、この間に六代は処刑されてしまいました。 しかも文覚は、帰京からわずか1年で後鳥羽上皇に謀反の疑いをかけられ、対馬に流罪とされてしまいます。 #鎌倉殿の13人
【諜報のプロ】 ある日、独と露の士官が明石元二郎に仏語で「貴官は独語ができるか」と尋ねる。明石は「仏語がやっとだ」と態と下手な仏語で答える。すると2人の士官は安心して、独語で重要な機密について話し始めました。しかし、明石は独語を完璧に理解しており、その機密は筒抜けだったそうです。
1898年11月12日、ジョン万次郎が亡くなりました。 14歳の時に漁の途中で漂流し、アメリカ船に救助され、ハワイを経てアメリカ本土にたどり着きました。 その後はアメリカの学校に通い、捕鯨船員などで資金をためた後に自費で帰国しました。 帰国後は幕府、政府の欧米派遣に随行するなど活躍しました。
1945年3月22日、硫黄島の戦いでバロン西こと西竹一が戦死しました。 西の最期は不明ですが、火炎放射器で片目をやられながらも、部下と最後の突撃を行ったといいます。 西の戦死の一週間後、ともに金メダルを獲得した愛馬ウラヌスも西の後を追うように亡くなりました。
1951年1月19日、実業家の星一が亡くなりました。 それまでは輸入に頼っていた、外科手術に不可欠なモルヒネの国産化に成功するなど、「東洋の製薬王」と呼ばれました。また、彼が創業した星製薬は「チェーンストア」という販売方式を日本で初めて確立しました。 ちなみに、長男はSF作家の星新一です。
1930年3月15日、横浜の山下公園が開園しました。 関東大震災の復興事業として、市内のがれきなどを使って海を埋め立て造成されました。 写真は開園当初の山下公園です。
今日は赤穂浪士討入の日です。 1884年(明治17年)に発行された『赤穂義臣伝』より、赤穂浪士討入の様子です。 明治維新によって幕府が崩壊して以降、公儀に対する反逆者であった赤穂浪士に対して、明治天皇が泉岳寺に勅使を派遣するなど公式に顕彰する動きが出始め、赤穂浪士人気はさらに高まりました。
1977年5月25日、スター・ウォーズがアメリカで公開されました。 世界歴代興行収入記録を持っていた『ジョーズ』を上回り、『E・T』に抜かれるまで記録を保持し続けました。 完成当初は子供向けのB級映画と評判は悪く、監督のジョージ・ルーカスも大失敗と思い込んでいたといいます。
1884年12月17日、有馬頼寧が生まれました。 久留米藩主有馬家の出身で、農林大臣など政治の世界で活躍したほか、日本卓球協会総裁、プロ野球チームオーナーなどスポーツの普及にも努めました。 競馬でも日本中央競馬会理事長として戦後の発展に貢献し #有馬記念 としてその名が残っています。
明治時代に撮影された長崎の風景
明治時代の初め頃に撮影された日本の風景
1863年6月27日、伊藤博文、井上馨ら長州藩士5名がイギリス留学のため密出国しました。 伊藤博文の持ち物は間違いだらけの英和辞典と寝間着だけで、渡航途中の船では水兵同然のひどい扱いを受けたといいます。 彼ら5名はロンドン大学にて「長州ファイブ」として顕彰碑が建てられています。
1894年7月9日、徳川慶喜の正室の一条美賀子が亡くなりました。 慶喜との間には女子が誕生しますが夭折し、その後慶喜は長く京に滞在したため、約10年別居生活が続きました。 明治に入ると、10年ぶりに共に暮らすようになり、慶喜が側室との間にもうけた子はすべて美賀子を実母として育てられました。
1835年3月23日(天保6年2月25日)第4代総理大臣の松方正義が生まれました。 松方は女好きで、非常に子沢山であり、15男11女の子がいました。 明治天皇から「何人子供がいるのか」と尋ねられた際にとっさに思い出せず、「後日調査の上、ご報告申し上げます」と言ったそうです。
1915年9月28日、斎藤一が亡くなりました。 新撰組三番隊隊長を務め、戊辰戦争では会津藩に従い戦いました。 明治以降は警視庁の警察官となり、西南戦争にも従軍、退職後は現筑波大学の守衛、現お茶の水女子大学の庶務掛などを務めたほか、学生に剣術の指南も行っていたといいます。
1835年5月31日、新選組副長の土方歳三が生まれました。 土方は容姿が良く芸者、舞妓などから恋文をたくさん送られていました。 土方はそれを木箱にまとめて日野の親戚のもとに「つまらぬ物」と書き送って自慢していました。 「報国の心わするゝ婦人哉」という発句が手紙に添えられていたといいます。
写真は明治末期の「蹴上インクライン」です。 京都市・南禅寺の近くにあり、琵琶湖疏水を運行していた船を運航させるために敷かれた傾斜鉄道の跡地で、全長582mという長さは、世界最長となっています。 1891年から1948年まで運航し、現在その廃線跡は京都市の文化財に指定されています。
1858年10月27日、セオドア・ルーズベルトが生まれました。 有名な人形「テディ・ベア」の名前は、彼が由来となっています。 また、新渡戸稲造の『武士道』を読んで、あまりに感動したため、30冊も購入して知人に配布し、さらに5人の子供にも熟読するように指示するなど、日本贔屓が進んだそうです。
1976年9月21日、週刊少年ジャンプで「こちら葛飾区亀有公園前派出所」の連載が始まりました。 1度の休載もなく連載され、単行本は全200巻におよび、ゴルゴ13に抜かれるまでギネス記録に認定されていました。 2016年の連載終了後も、たびたび新作が掲載され、10月4日には201巻の発売が決定しています。
1928年5月21日、野口英世が亡くなりました。 黄熱病や梅毒の研究で知られ、ノーベル賞候補に3度名前が挙がりました。 野口は名言をたくさん残しており、「過去を変えることはできないし、変えようとも思わない。人生で変えることができるのは、自分と未来だけだ」などは現代にも通じる言葉です。
1793年3月4日、大塩平八郎が生まれました。 米不足で民衆が苦しむ中、1837年に幕府に対して反乱を起こしました。 ストイックな性格で、夕方には就寝、午前2時に起床と天体観測、武芸の後朝食、午前5時には門弟を集めて講義、その後出勤という自他ともに厳しい生活を送っていたといいます。
1901年9月7日、義和団事件が終結しました。 清が列強に分割される中、西太后が「扶清滅洋」を叫ぶ義和団の支持を受けて、欧米諸国に宣戦布告した一連の動乱を義和団事件と呼びます。 この事件を通じて、イギリスは秩序ある日本の行動を評価し、1902年の日英同盟締結の契機となりました。