今日は文化の日です。 1947年までは明治節として明治天皇の誕生日による休日とされていました。 1946年11月3日に日本国憲法が公布され、憲法が平和と文化を重視していることから、文化の日とされました。 近年、本来の由来である「明治の日」に改称しようとする動きも出てきています。
明治末の横浜の様子
江戸時代末期から明治時代初期にかけて撮影された、江戸幕府の様子が思い起こされる江戸城
戦後に撮影された渋谷スクランブル交差点の様子。 左下のベンチで囲まれた像が1948年に再建された忠犬ハチ公像です。 1989年に駅前広場が拡張された際に、現在の位置へ移動され、駅の出口の方向へハチの顔が向く形となりました。 像の台座の高さも、触れやすい高さに変更されたそうです。
明治時代に撮影された清水寺
1945年3月22日、硫黄島の戦いでバロン西こと西竹一が戦死しました。 西の最期は不明ですが、火炎放射器で片目をやられながらも、部下と最後の突撃を行ったといいます。 西の戦死の一週間後、ともに金メダルを獲得した愛馬ウラヌスも西の後を追うように亡くなりました。
名古屋軍(現中日ドラゴンズ)に在籍していた石丸進一は特攻隊員として零戦に乗って出撃し、戦死しました。 1942年には17勝を挙げ、1943年には戦前最後のノーヒットノーランを達成するなど、名古屋軍を代表する投手でした。 出撃前に最後のキャッチボールを行い、出撃したといいます。
明治時代に撮影された日本の風景
1912年4月15日、タイタニック号が沈没しました。 当時最大の蒸気機関船であった豪華客船のあっけない最期でした。 また、 ①操縦士の異常な操縦 ②船に総額500億円ほどの保険金がかけられていた ③船の実質的なオーナー、ジョン・モルガンが処女航海に乗船しなかった など、不審な点が残ります。
明治時代に撮影された園城寺 #鎌倉殿の13人
明治時代に撮影された上野公園の桜
1948年11月12日、極東国際軍事裁判の判決が下されました。 「平和に対する罪」を問われた所謂「A級戦犯」として、東条英機ら7人が絞首刑、16人が終身刑を宣告されました。 インド人判事のパールは、「平和に対する罪」は事後法であるとして、最後まで被告全員の無罪を主張していました。
今日は天皇誕生日(天長節)です。 大正時代は、天皇誕生日による祝日が年2回ありました。 大正天皇の誕生日は8月31日ですが、気温が高く、式典を行うのが困難であることから、10月31日が天長節祝日とされ式典が行われました。 8月31日は何も行事は行われませんでしたが、祝日とされています。
明治時代の初め頃に撮影された東京の風景
今日は『ネコの日』です。 ネコはネズミの害から穀物を守るために奈良時代頃に中国から輸入され、以降長きにわたって鼠害防止の益獣、および貴重な愛玩動物として扱われました。 江戸時代にはネコが貴重で少なかったため、ネズミ駆除のために猫絵を描いて養蚕農家に売り歩く者もいました。
1945年4月7日、戦艦大和が沈没しました。 一億総特攻の魁として沖縄に海上特攻という形で出撃しました。 鹿児島の坊ノ岬沖でアメリカ軍機と戦闘に入り、約2時間の攻撃により沈没しました。 死者は2,740名、生存者は269名でした。
1893年12月5日、幕末の会津藩主であった松平容保が亡くなりました。 会津戦争後しばらくは朝敵として蟄居の身にありましたが、1872年には許され、その後は日光東照宮の宮司を務めました。 容保の曾孫にあたる徳川恒孝が徳川宗家に養子に入ったことで、現在の徳川宗家は容保の男系子孫となっています。
姉川の戦いが起きた時の登場人物の年齢(満年齢) 徳川家康 27歳 瀬名 28歳前後 浅井長政 25歳 お市 20歳前後 酒井忠次 43歳 石川数正 37歳 本多忠勝 22歳 榊原康政 22歳 平岩親吉 28歳 織田信長 36歳 木下藤吉郎 33歳 明智光秀 54歳 井伊直政 9歳 #どうする家康
今も残る明治期の京都の風景
明治時代に撮影された伊香保温泉の様子です。 有名な石段は、長篠の戦いで大敗を喫した武田勝頼が負傷兵の療養場所として、真田昌幸に命じて整備させたのが始まりといわれています。 明治時代以降は、夏目漱石、徳富蘆花ら文人が数多く訪れたほか、御用邸やハワイ王国大使別邸なども作られました。
渋沢栄一の女遊びの激しさは妻も認めており、後妻の兼子夫人は「論語とは上手いものを見つけたよ。あれが聖書だったらてんで守れてないものね」と語ったそうです。 キリスト教では姦淫は禁止ですが、論語には性に関する戒めの記載がなく、論語を重んじた栄一をからかったものでした。 #青天を衝け
1878年5月14日、大久保利通が不平士族らによって暗殺されました。 大久保は金銭に潔白で私財を蓄えず、それどころか予算のつかなかった公共事業を私財を投じて行うほどでした。 そのため死後約2億円もの借金が残りましたが、大久保の志を知っていた債権者たちは返済を遺族に求めなかったといいます。
1948年6月13日、太宰治が愛人の山崎富栄と玉川上水へ入水しました。 現場には手をついて滑り落ちるのを止めようとした痕も残っており、太宰は死の直前に突然、生の執着が胸をよぎったのではないかと推測されています。 遺体は6日後の6月19日、太宰の誕生日に発見されました。
赤穂浪士の討入り、桜田門外の変、二・二六事件は、どれも「雪」を連想させる事件です。 しかし、二・二六事件は「降雪中」の事件ではありませんでした。 反乱軍による首相官邸などの襲撃が一通り済んだ午前6時頃、まだ雪は降っていなかったようです。 積もっている雪は数日前の大雪によるものでした。
1913年11月22日、徳川15代将軍・徳川慶喜が亡くなりました。 晩年の慶喜は写真撮影、自転車、油絵、鉄砲猟、乗馬など、沢山の趣味に興じて余生を過ごしました。 急性肺炎によって76歳で亡くなりますが、歴代の徳川将軍家の中で最も長生きした将軍となりました。