古代の女官は、天皇のハーレムの一員だった? とんでもない! そもそも、古代の大王は、隔絶した空間としての後宮なんて持ってはいなかったのですから。女官の仕事は、マツリゴトを支えること。既婚未婚・年齢不問。中央・地方から、選りすぐりの人材で構成されたキャリアウーマンたちでした。
地方から大王に「貢(ぐ)」された、かわいそうな美女……50年前には、こんな采女像が広がっていました。一因は「貢」の意味を学者たちが読み間違えていたこと。実は律令の規定では、地方から人材を推薦する時に、男女を問わず「貢」という漢字が使われたのです。贈り物という意味ではなかったのです。
古代、大和朝廷と地方豪族の関係は、地方から代表を送ることによって維持されました。まさにフェイストゥフェイスの関係です。代表は、男女どちらでもOK。その役割を担った人たちのなかには、ウネメ(采女)もいました。彼女たちは大王のマツリゴトをたすけ、律令時代には宮廷女官として活躍しました。
取材をお受けする中で、#ジェンダー展 において「山上碑」や『古事記』に出てくる「娶」という字を「めとる」ではなく「みあう」と読んでいることについて、ご質問をいただきました。担当した展示プロジェクトの義江明子委員による解説を、Twitterでもご紹介します。
戦後に谷野せつが勤務した労働省はGHQ/SCAPの関与の下で設置され、初代婦人少年局長の山川菊栄以下、女性官僚が存在感を示す中央官庁でした。労働省は、婦人週間などを設けてポスターやパンフレット(メリーランド大学ゴードン・W・プランゲ文庫蔵)、紙芝居による啓蒙活動を展開しました。
古墳時代前期の前方後円墳には、女性首長が葬られている事例があります。熊本県の向野田古墳からは、30歳代の女性人骨が見つかっています。鏡・玉類・農耕具類などの副葬品は男性首長と遜色ありませんが、武器・武具の副葬には違いがあります。軍事権への関わりには男女で違いが見られるようです。
集団を男女で分けることは、いつから始まったのでしょうか。奈良・東大寺の正倉院に残る702年の戸籍では、男女が明確に区分されています。しかも女性の名前は例外なく「○○売(め)」と記され、一目で女性とわかる名前です。男女の区分は、律令体制が本格化した7世紀末に始まったと推測されます。
戦前日本の官僚採用試験では、女性には受験資格がありませんでした。それでは、官庁に女性がいなかったかといえば、そんなことはありません。まず、雇員や傭人といった、今日でいえば非正規職員のような形で働く女性たちが存在しました。
#ジェンダー展 図録の通信販売はこちらです。ご来館になれない方はぜひ図録にて本展をご堪能ください。重さがありますので、ご来館予定の方も通販にて先にご入手、予習されるのもよいかと思います。 rekihakushop.shop-pro.jp/?pid=154477844
#ジェンダー展 図録の目次をご紹介します。おおよそ展示の流れと一致していますので、展示の内容が気になる方にも参考にしていただければと思います。本図録は、展示に関連したコラムが充実しているのが特徴です。
#ジェンダー展 図録、昨日納品されました。副代表の計測によると厚さは約2.3㎝、重さは1.4㎏弱と、歴博の図録史上おそらく最厚・最重に。ご来館の上お求めになる際は、ぜひ丈夫なバッグをご用意ください。
「古代の指導的女性は、本当にみな「巫女」だったのか?」という通説を疑い、政治的実権を持った王として卑弥呼像をとらえ直し、古代の女性首長の実像を明らかにしたのが、展示プロジェクト委員の以下の著作です。↓ 義江明子『つくられた卑弥呼』ちくま学芸文庫 2018) chikumashobo.co.jp/product/978448…
倭の女王卑弥呼が登場することで知られる中国の歴史書「魏志倭人伝」のなかには、「その会同・坐起するさまは、父子・男女の別なし」(集会のときのふるまいに、父子・男女の差はない)という一文があります。男女が政治に参加するという倭人の社会を土台に、卑弥呼は倭王となったのです。
#ジェンダー展 のポスター・チラシにもあしらわれている女性たち。「東山名所図屏風」(国立歴史民俗博物館蔵)の登場人物で、「清水の舞台」の真ん中に描かれています。愛らしい幼児の隣には、この子を慈愛のまなざしで見つめる尼姿の女性がいますが、彼女は「後家尼(ごけあま)」と思われます。
中世の遊女はプロの歌手でもありました。今回展示する「今様之濫觴」(公益財団法人前田育徳会蔵)からは、母から娘へ代々歌謡の芸を受け継いできた遊女たちの姿がうかがえます。遊女の家族関係を知ることのできる貴重な史料でもあります。会場ではぜひ人名の横に書かれた注記に注目してご覧ください。
たとえば中世には遊女自身が経営権を握っていました。その仕事は母から娘へと受け継がれる家業であり、遊女たちの集団もありましたから、誰でも遊女になれるわけではありませんでした。遊女屋の男性経営者が人身売買によって女性を集め売春を行わせるようになるのは戦国時代以降のことです。
「売春は最古の女性の職業」といわれますが、それは事実でしょうか。近年の研究によれば、日本で職業としての売春が生まれたのは、9世紀後半頃であることが明らかになっています。 #ジェンダー展 「性の売買」では、性の売買を各時代の社会構造と関連付けながら歴史的なものとして考えます。
#ジェンダー展 の図録、無事に校了しました。A4版314頁に及ぶものになりました。楽しみにお待ちください。通常通り、通信販売も行う予定です。反響の大きさに鑑みて、過去最大級の部数での刊行を依頼しております。
#ジェンダー展 の準備も、おかげさまで順調に進んでいます。今週は、館の職員が美術品専用車に同乗して、手分けして集荷に回っていました。北は東北から南は九州まで、各地の多彩な資料を御覧に入れる予定です。来週からは、いよいよ展示室の作業が始まります。ご期待下さい。 rekihaku.ac.jp/exhibitions/pr…
巫女といえば女性をイメージする方が多いでしょう。しかし京都の祇園社で神楽を舞った「片羽屋神子(かたはやみこ)」には男性も女性もいました。16世紀後半頃から女性神子が減少し男性中心になりますが、その頃描かれた「東山名所図屏風」(国立歴史民俗博物館蔵)には男女の神子が描かれています。
#ジェンダー展「政治空間」では、女性官僚に注目します。古代に女性の王や官僚が当たり前にいた時期から律令制下での区分の確立、女性官僚が女房として御簾の向こうの存在となる中世、男女が協働する大名家や将軍家の奥の構造。明治憲法体制下での女性の排除、現代への流れを具体的な史料で示します。
しかし、1578年の文書では、今町の魚商人はすべて男性名になっていて、「名義」は男性にする、という傾向が進んだことが窺えます。このように、中世の段階では女性が公的にも権限を持っていたものが、女性は代表権を失って男性名義になる、という現象は、色々な所で見られます。
女性が店で魚を売るこの光景は、京都の今町(現上京区)で魚商売を営んでいた「今町供御人(いままちくごにん)」を描いたものです。朝廷の御厨子所(みずしどころ)に属して特権を認められていた女性を主とする集団で、特権は女性から女性へ受け継がれていたようです。
#ジェンダー展 中世の「仕事とくらし」については、風俗図屏風を題材に取り上げています。16世紀初めの「洛中洛外図屏風歴博甲本」(国立歴史民俗博物館蔵、展示は複製)には1426人の人物が描かれていますが、内238人が女性で、さまざまな生業に従事する姿を見ることができます。その一例が魚屋です。
#ジェンダー展 には、実はいわゆる名品もかなり多く出品されます。たとえば「源義経書状」(国立歴史民俗博物館蔵)は義経の自筆文書として有名なものですが、なぜこれが展示されるかというと、八条院(暲子しょうし、鳥羽法皇の娘)という、女院(にょいん)に関係する文書だからです。