ライトノベルは「ブギーポップ」以前と以降で分けられる。ひとつは近代文学の系譜として現代人を出してもいいんだと全員に気づかせたこと。もうひとつは、世界を救ったのは各種超人や異能ではなく、作中ですでに死んでいる一人の少女の人間としての優しさで知恵やパワー解決を脱していた、という二点。
最近の精神医療で、ヤンキー漫画が「暴力的文化がある地域と家庭は社会制度と教育で、IQ70~84の境界性知能からの問題は専門教育で治療しましょう」と、不良幻想が単なる社会制度の不備と能力不足へと完全解体されて死んでしまった感はある。現代で不良のロマンを語るとギャグになるくらいに。
別に日本だけでなく、アメリカの反ポルノのマッキノンなんかも、日本でレディースコミックが女性に読まれていることについて「男性が書いて読んでいるはずだ」「女性作者や読者は、幼少期に性的虐待を受けたケースなど極僅かではないか」と事実を一切調査せず幻想の狂信を通している。
今考えると、スピードワゴンのディオ評の「環境で悪人になっただと? ちがうねッ!! こいつは生まれついての悪だッ!」はよく少年誌で通ったなと。ただ、近年「どうしても人を殺したい」という近代と精神医学が想定できず、治療法もない人が数百万人に一人は出ることが分かり、ちょっと的中している。
「一夫多妻が人間の自然で、弱者男性はいらない」みたいなのを見る。ええと、500~700万年前に共通祖先から一夫多妻、乱婚、多夫多妻で他のサル族に、一夫一妻で二足歩行に牙の縮小その他で分岐したのが人類の祖先なんで、むしろ一夫一妻制度が人間という種の成立条件説があるのだけど。
「キャビン」大学生五人がバカンスへ向かうと、不吉な警告をする謎の男、地下室は謎の品々があり、惨劇が始まる。が、それらを監視カメラで見ている組織と人々がいた。ホラーをメタ視点から見て、ついでにSCPが好きな人への映画としては現時点で最高峰のひとつ。
陰謀論の「トカゲ人間が歴史上の世界各国の指導者、偉人や科学者の正体であり、人類をコントロールをしている」への好きな反論は「トカゲ人間がそこまで全分野で人類より有能で長期的に頑張っているなら、管理を引きつづき任せたい」というものである。
実際に世界各地の調査で、超人気大作ゲームが出てからしばらくは暴力や殺人件数が有意に減るという事例もある。こちらは近代文学がどうのこうのではないかもしれないが、ヒマでイライラする人でも娯楽があると収まるとは思われる。
転生の二回目は天使で。絵本で神と言うと宗教だと思われるけどそうではないと見せかけたい人が、よく天使を出すよ。
ガガガ文庫から電撃文庫に編集者が行って、電撃文庫からガガガ文庫に編集者が来て、戦時の捕虜交換現象と命名する(よくあること)
話の方向性は少し違うのだけど、なにかを褒めるのは雑でも無害で終わる。しかし、なにかを責めるときに雑だと、愛好者や世間から科学的事実や歴史的経緯からの全方向で抗議が来る、と予想するのが標準的な態度だと思う。
人類史の統計と研究で、経済発展その他ではなく、異国人異教徒異性、自分ではない他人の心を描く近代文学の広まりと暴力と殺人の減少数が比例する。日本の他国より大きな犯罪率の低下、もしかしたら毎週触れるジャンプサンマガ、アニメにドラマといった近代文学の系譜による影響が大きいのでは説。
「マトモな人生を送る1番の秘訣はマトモじゃないヤツと付き合いを持たないこと」はそのとおり。さらに「一見普通で優しくさえ見えるが、ちょっと困るか成功しただけで、途端に邪悪をなす人」がいて、自分が当てはまることもある。悪は外から来るだけではないと想像しない人、体感だが人でなし率高い。
病気や障害、不幸な生い立ちや境遇、事故や災害が、後のなんらかの才能や成功や幸福を作った、という、物語化をどうしても人はしたがる。「それは偶然や単なる出来事で、とくになにか良いことには結びつくことはありません」という事実に耐えられる人はおそろしく少ない。
数百人を集めてゾンビとするのは大変だが、ニュージーランドのどこにでもいる羊の口元を赤く染めて人喰い羊だとして数百単位で走らせると、大スペクタル場面となる。見慣れている光景とやりたいことを結びつけた、製作者の発想の勝利。
知識以前に「人間という生物の性質はほぼ同じなので、そこからの諸行動で日本人にだけあってそれ以外の世界すべてに一例もない、もしくは逆、というものはまずありえないだろう」という高校生くらいの標準的な合理性指数を持たないか、あっても思想信条や信仰で無視されて変なものとなる。
ブルーレイを見直すと、手をつないで幽霊を囲んでどんぐりころころを歌って、中央の水盆のカエルに封じる、と手順を発見して再現できる、私立小学生の程度の高さにリアリティがある。悲しいことに、公立小学生にできるかというと、絶対に誰かが低能と感情論を発揮するだろうなとなる。
ダイ大、バーン戦終盤まで放送される。絶望的状況でも「お前を倒せば結界が消える。その後で黒の核晶を止めに行く。順番通りじゃねえか。何がおかしい?」 と大魔王を障害物のひとつ扱いし、カイザーフェニックスを分解し、大魔王に恐怖を与えるポップが最高よな。
私が聞いた事例は、社員が出社したら、編集長席に座っている男がいて「次はこのガンダムを作るぞ」と資料とともに言ったそうです。社員は制作会社の偉い人なのかなと応対していたが、しばらくして関係者でもなんでもない人だと判明して警備員に連れられていった話が。 twitter.com/ichiro_sakaki/…
担当さんの許可も出たので。数年前に、人は病気や事故で突然いなくなると実感しすぎたので「されど罪人は竜と踊る」の最終章だけは完成して預けています。
前世紀からのファンタジーRPGいじりが飽きずに今も続くが、正しさや愛や友情とはなにか、と問うど真ん中の剛速球のダイ大は今に提示されることに意味があるように思う。「このマスターピースに対する返歌をきっちりできているか?」と問われたらほとんどの創作者は襟を正すしかない。
創作業をある程度やると、どこにも現実に関わらない創作としても、ほぼ必ず変な人か団体から抗議が入ってくる。一回も来たことがないなら、出版社や放送局が間で対応して作者に伝えない配慮をしているか、ある程度以下ではないかと思われる。必ず来るものだと覚悟というか認識しておいたほうが良い。
あとは「君たち○○族は、宗主国に忠実な良い民族なので宗主国人に次ぐ階級である。あとの□□や△△族をビシバシ監督しなさい(内乱が起こったら、宗主国ではなく、君たちが激烈に恨まれるけどよろしく)」という二重支配も、後々ほぼ確実に民族紛争と虐殺を起こす邪悪なシステム。
きさらぎ駅をRTAにする異常発想。主人公は人々を救いたいのだが、手遅れに足手まといはサクサク見捨てて最速攻略。きさらぎ駅側もこいつはなんか違うぞと、一回目とは違う壁抜けや自爆特攻マンたちで難易度を上げてくるGM気質。ギャグ展開に見えて、ホラーらしくきちんと嫌なオチとなる。
対立者としての悪役たちは、世間や作者が一見納得しそうな正しさを持ち「それでもなお」とする主人公たちによって乗り越えるか落とし所を探る。この作業で考えの昇華が起こり、より高度な意見や倫理や合理性が出てくる。この繰り返しと積み重ねで物語も発展してきたと思う。