ちょっとこれは信じられへん。五輪を通して進行する社会倫理の崩壊が止まらない。 「五輪子ども動員」強行のために東京都が“キャンセル案内文書”を隠蔽! 感動演出のために子どもの命を危険に晒す狂気 lite-ra.com/2021/06/post-5… @litera_webより
某社から取材を受けたときに聞いたのですが、最近の取材ではスポンサーサイドからオリンピックに関する質問は控えるよう要請されるとのこと。その記者は、所属する会社の煮え切らない態度も含めて、オリンピックを語ることのタブー視に疑問を抱えながら苦悩しつつ取材を続けているとのことでした。
昨日、東京五輪の中止のみならず五輪そのものを廃止すべきだと考える研究者同士で座談会を行ったのですが(近日中に公開予定)、そこでも主張し続ける大切さについて話をしました。「どうせ」をとことん忌避する姿勢が、いま求められていると思います。 twitter.com/mu0283/status/…
せめて児童と生徒の動員だけはやめてほしい。五輪もろともスポーツに対する印象が悪くなるとともに、「おとな」に対する信頼が損なわれるから。五輪関係者のみならずそれを黙認した人たちも含めてのこの失望は、社会そのものに向き、それが未来の社会に致命的なダメージを与えるように思えてならない。
「おとな」は「こども」にとって生き方の手本であり、その総体が社会なのであって、「この社会にはロクなおとながいない」という身体実感はジワジワと、でも確実に本人の人生観に影響を与える。「こども」が成熟するためには肚の据わった「おとな」の背中が必要だと、僕は思う。
AERAから取材されました。松本選手の胸中からアスリートの苦悩がわかります。フェアネスが担保されない点でも、僕は東京五輪は開催すべきでないと考えます。 史上最も「アンフェア」な五輪に? 予選会中止や出場辞退で失われた公平性 dot.asahi.com/aera/202106210… @dot_asahi_pubより
記者が苦悩しているのは知っているけど、やはりこの点は批判すべき。森田氏の主張に同意します。決して忘れません。 東京五輪の暴走に、何もしなかったメディアのことを忘れない(森田浩之) - Y!ニュース news.yahoo.co.jp/byline/moritah…
松本さんの一連のツイートは、今の僕の懸念を語ってくれている。メディアの過剰な盛り立てが社会とスポーツの分断を生むのは火を見るより明らかです。なにより僕自身もまたスポーツへの興味が失われつつあり、この複雑な胸中とどう折り合いをつければいいのかに日々悶々としている。→ twitter.com/MatsumotohaJim…
ついこの前までの東京オリパラへの反対論調が沈静化しつつある。ついその流れに乗ってしまいそうになるが、ここで諦めムードに流されてはならない。反五輪のアクティビストたちは、これまでずっと辛抱強く活動してきた。彼らに敬意を示すためにも、めげずに声を上げ続けたい。
これは僕は逆だと思います。いま開催に懸念を示さないとスポーツ文化が萎む。自己利益を追いかけて批判の目を向けなければ、上位下達で忖度を強要される旧態依然のスポーツを放置することになる。長期的な視野、かつ社会的な視点で捉えることが、ジャーナリズムの役目だと思います。 twitter.com/bibirinba/stat…
「怒り続ける体力」の大切さを日々実感している。アカンことはアカンと言い続けること。どれだけことばが軽んじられようがそれへの信頼を保ちつつ、はぐらかされないように抗い続けることこそ、いま求められている。シニシズムに陥ってはならんのです、いまは。
この指摘は興味深い。かつて雑誌『Number』を愛読していたからこそ余計に心が痛む。スポーツを語る言説が情緒的過ぎるのは最近特に感じていて、スポーツを象ることばのアップデートが必要なんだろうとは思いつつも、ではどのように語り書けばよいのかはまだ具体化できていない。ここしっかり考えんと。 twitter.com/tako_ashi/stat…
緊急事態宣言下でも大会を開催するのは、これまでのIOCのやり口を敷衍すればさほど驚きはしない。これまで実直に五輪研究を続けてこられた人たちも、おそらく驚いていないと思う。彼らならやりかねんよねと、そう考えていると思う。→
ただ怒りとやるせなさと情けなさを覚えるのは、IOCに唯々諾々と従う政府、東京都、JOCの弱腰な態度。ここまで倫理観が破壊されてることにはやはり驚きを覚える。国民を守るべき立場にありながらその職務を放棄し、国民をさらなる危険に晒してどないすんねんと。
「喧嘩腰」な人がいることは否定しないけど、反対する人たちのほとんどは「コロナ禍の今」は開催すべきでないと主張しているだけです。そして、五輪がこれまで社会に「災害規模の負担」をかけ続けてきたことを直視し、五輪そのものの再考を促している。ただそれだけです。 twitter.com/ysk_okada/stat…
もし楽しみが奪われるアスリートとファンの気持ちを察するのであれば、それと同じ視点を、オリンピックの開催に伴って健康を害し、生活そのものを奪われた人たちにも向けるべきです。どれだけの人が虐げられてきたのかは、蓄積された五輪研究が明らかにしています。それをぜひ読んでほしい。
アフター五輪におけるスポーツの未来を健全なものにするには、五輪の歴史を振り返らなければなりません。五輪がいかにして社会を、そこで生きる市井の人たちを犠牲にしてきたのか、まずはそれを、当事者であるスポーツ関係者は知る必要があると思います。
「五輪だけが敵対視されている」と感じられるのは、感情的になっている反対論者の存在が影響していることは否めませんが、これまでの歴史を知らないからだと思います。過去を知らずして未来は語れません。共有する過去があって、初めて対話は成立する。
IOCはアスリートと社会の分断を巧みに操作してきました。それに踊らされてはならないんです。踊らされないためには、まず過去を知らなければなりません。分断を回避する道筋を、僕はこれからも探り続けようと思っています。
これは決して忘れてはならないことです。一部の人たちが莫大なカネを手にするために、尊い命が犠牲になっている。他にも、足場の上でつい眠って落下しないように互いの頬を張り合っていたと、ある週刊誌が報じていました。これだけの無理を強いてまで五輪を開催するのは、やはり間違っています。 twitter.com/NatsukiYasuda/…
僕もコメントしました。「スポーツを楽しむこと」と「五輪に反対すること」は矛盾ではなく同時に成立することがわかる記事です。ぜひ、ご一読を。 twitter.com/tokyonewsroom/…
日々、目にする情報に精気が吸い取られるように感じるのは、社会的倫理観が次々と壊されているからだと思う。「質問には書面を棒読みするのではなくできるだけ自分の言葉で誠実に語ること」、「他人に強いたルールは自分も守ろうとすること」、「公人たる者は『李下に冠を正さず』を心得ること」→
「発言に責任を持つこと」、「弱き者に『惻隠の情』を持つこと」、そして「言葉は正しく使うこと」。僕たちが身を寄せ合いながら生きる社会には守らなければならない不文律がある。それらが悉く踏みにじられつつあることに、義憤が湧く。→
おかしいと思うことにはちゃんとおかしいと言う。言い古されたこの正論を、日々の生活のなかでいまこそ実践するときなんだ。静かに怒り続けることで、少しづつだが社会はよくなる。少なくとも僕はそう信じている。