1929年の今日、ドイツの飛行船「ツェッペリン伯号」が世界一周飛行の途中、霞ヶ浦海軍航空隊基地に寄港しました。飛行船は東京・横浜上空も通過しています。 来日中の写真は良いものがたくさんあるのですが掲載できません。こちらは1930年、リオデジャネイロ上空を飛ぶ様子です。
1939年頃の #としまえん の園内ガイドマップです。 ウォーターシュート、桃太郎神社、慰霊塔。現在はないアトラクションや施設がたくさん載っています。
1918年頃に撮影された浜松の写真です。1918年8月17日の浜松の最高気温は29.0℃でした。
としまえんの閉園まで、あと15日となりました。写真は1940年頃の豊島園大プールです。 ご覧の人だかりですが、気象庁の統計によれば1940年8月の東京の月最高気温はなんと32.7℃。今よりも格段に涼しかったのでしょう。
1947年頃に撮影された横浜駅のカラー写真。駅前に停まっているのは米軍専用バスでしょうか。
1946年頃に撮影された名古屋のカラー写真です。1枚目の画面奥には愛知県庁が小さく写っています。
8月15日は #終戦の日 です。 写真は太平洋戦争の激戦地サイパンから「バンザイクリフ」と「スーサイドクリフ」です。1944年6月から7月にかけて行われたサイパンの戦いの中で、多くの兵士や民間人がここから身を投げ自決しました。自決者の多さから海は血で染まったと言います。
1935年(昭和10年)に撮影された上野
写真は1908年に開業した台湾鉄道ホテルです。1945年5月、アメリカ軍による台北大空襲によって消失しました。台北大空襲では約3000人が亡くなっています。
1935年(昭和10年)に撮影された新宿、渋谷
戦前の名古屋
取り壊しが決まった神保町の旧相互無尽会社ビルに使われているのは「スクラッチタイル」です。 フランク・ロイド・ライトが設計した帝国ホテル旧本館にこのタイルが使用されたことから人気が広まり、大正末期から昭和初期にかけて建築界で広く流行しました。どこか懐かしさを感じさせるタイルですね。
来月から取り壊しが始まる東京・神保町の旧相互無尽会社ビルです。竣工は昭和初期、建てられてから今年で約90年になります。細長いビルの形状と窓に取り付けられた白い格子が目を引きます。
75年前の今日、釜石艦砲射撃が行われました。 7月14日以来2度目の攻撃となり、281人の一般市民が犠牲になりました。 当時の人の証言によると、連合国軍は最初に山側を砲撃し、平地にあぶり出された人たちに対して戦闘機による機銃掃射を行ったそうです。
1940年8月8日、戦艦大和が呉海軍工廠にて進水しました。 しかし機密保持の点から、進水式が公表されることはありませんでした。 写真は翌年呉工廠にて最終艤装中の大和です。
大正初期の万世橋駅前。広場には日露戦争の英雄、広瀬武夫と杉野孫七の銅像が建っていました。
#としまえん の回転木馬「カルーセルエルドラド」に乗った史上最も有名な人物は、セオドア・ルーズベルト米大統領でしょう。 ニューヨークタイムズによれば、ルーズベルトは1917年に第一次世界大戦の戦時国債購入キャンペーンのためにこの回転木馬に乗ったそうです。木馬は1969年に日本へ渡りました。
大正時代の新世界、初代通天閣
92年前の今日、1928年アムステルダムオリンピックにて人見絹枝が女子800m走で銀メダルを獲得しました。 人見は「疲れたら腕を振れ」との監督の言葉を思い出しながら懸命に走り、最後は記憶をなくしながらも精神力で駆け抜け、日本人女子初となるメダリストに輝きました。
1914年(大正3年)に撮影された大阪の風景。
75年前の今日、富山大空襲が行われました。 174機のB29によって市街地の99.5%が焼き払われ、2,737人の犠牲者が出ました。これは広島、長崎の原爆を除けば地方都市として最大の被害となっています。 アメリカ軍は数日前からビラを撒いており、1日の空襲を信じていた市民も多かったと言われています。
34年前の今日、多くのユダヤ難民に救いの手を差し伸べた杉原千畝が亡くなりました。 杉原はビザを無断発給したことで免官になったあと、NHKや商社での職についたとされていました。 しかし実際は依願退職をしたのちに参院事務局の職員に転職していた時期があったことが、2019年7月に判明しています。
台湾ラーメンは1970年代に名古屋にある台湾料理店「味仙」の台湾人店主である郭明優が、台南名物の担仔麺(タンツーメン)を元に作ったのが起源とされています。 担仔麺を再現しきれず、辛い物好きの店主の好みで唐辛子などを加えた結果、現在の台湾ラーメンが出来あがりました。 #秘密のケンミンSHOW
136年前の今日、東條英機が生まれました。 東條は「モラルの低下」が戦争指導に悪影響を及ぼすと考え、民心把握に人一倍努めたといいます。 配給所で米をもらった老婆が礼を言うのに、事務員が何も言わなかったところ「君も婆さんに礼を言いなさい」とたしなめた逸話が残っています。
55年前の今日、江戸川乱歩が亡くなりました。 大正から昭和にかけて活躍し、明智小五郎、怪人二十面相シリーズなど様々な推理小説を生み出しました。 ペンネームはエドガー・アラン・ポーに由来しています。 戦争中は探偵小説が検閲の対象となり、内務省のブラックリストに名前が載ったといいます。