私達が守るべきなのは誰なのか、絶対に考えるのをやめてはいけません。
本来守られるべき人たちが去り、加害が当然のように居座ってしまう。加害が放置されれば、当然新しい被害が生まれ続ける。状況を変えるには周りの人間もいつまでも黙っていてはいけません。沈黙することで加害を守ってはいけない。被害者だけに声を上げる責任を押し付けていてはいけない。(続)
繰り返しますが、被害者が「去る」のが当たり前になったのはいつからでしょうか。いじめと呼ばれる暴力、虐待を受ければクラスを去り、学校を去る。セクハラ、パワハラにあえば職場を去り、会社を去る。痴漢にあえば時間をずらし違う電車に乗る。(続)
成り立たないからです。人権の侵害に加担すると分かっているなら決して沈黙してはいけない。気づいたらすぐにでも周りの人間が声を上げなければ。加害から目を逸らすということは被害から目を逸らすことですから。もうそうやって私達一人一人が今いる場所から変えていくしかないのではないでしょうか。
繰り返しますが、いじめっ子は一人でいじめを続けられない。上司は一人でパワハラを続けられない。差別者は一人で差別を続けられない。必ずと言っていいほど周りで傍観している人間がいます。人権が侵されている時の「沈黙」は決して「中立」などではありません。決して。周りが傍観しなければ、(続)
繰り返しますが、国のお金の使い方を根本から見直せば、この国の国民は今よりもっと豊かに暮らせるんじゃないしょうか。遥かにです。
守らなければならないのは被害者です。私達は気付かないうちに被害者批判に陥ってしまっていないかどうか、常に自分の思考をチェックしておかなければいけません。
本来被害者を守り加害側と向き合うべきところを、すでに傷ついている無抵抗な被害者をさらに追いつめるという深刻なエラーをおかしてしまう。加害と向き合わずに放置することで、結果加害を守ってしまう。当然、加害の根源を放置してしまえばまた新しい被害が生まれ続けます。(続)
もう何度も繰り返していることですが、犯罪が起きたときに加害側にはノータッチで被害者ばかり責めてしまう脳の癖はビクティムブレイミング(被害者批判)と呼ばれます。脳がおかしてしまうエラーの一つですね。加害側に立ち向かわずに、そばにいる被害者を責めてしまう。(続)
基本的に、改竄とか隠蔽とかし出したら、すぐに政権を交代させるくらいの自浄作用があってほしい。どの党かに関わらず。政治腐敗を減らす為に。国民の為にも。
繰り返しますが、「どうして政治の話なんかしているんだ」ではなくて、「どうして政治の話をしていないんだ。こんなに大変な状況になっているのに。」という声のほうが自然と上がるような風潮になってほしいですね。出来るだけ早く。
訂正: 最低限の権利が守られない
人の権利が侵されている時に憤って声を上げることはみっともないことでもなんでもないんです。憤ることはすべて駄目なことだとするのではなく、人権の侵害、尊厳の侵害に、憤らなければならない場合もあるということを忘れてはいけませんね。
怒る事は「みっともないこと」「大人気ないこと」などとみなされることがありますが、人の人権や尊厳が侵されているのを目撃した時には声を上げなければいけない時が人生にはありますね。ライチャス・アンガー(義憤)と呼ぶ人もいますね。(続)
病気になっても満足に医療が受けられない市民が溢れていることに怒っている。低賃金で劣悪な環境で酷使されている市民で溢れていることに非常に怒っている。要するに、人として最低限の権利が守らないのが当たり前のようになってしまっている状況に強く憤っているんですね。(続)
何度も繰り返しますが、アメリカにバーニー・サンダースという議員がおられます。あの人はどうしていつもあんなに怒っているんだと思ってしまうくらい、いつも怒っています。どうしてそんなに怒っているのか聞いてみると、働いても働いても豊かにならない市民で溢れ返っていることに怒っている。(続)
あと何が起きたら今の政治のあり方にNOを突きつけらるんだろうか。政治というのは歯を食いしばって黙って耐えるもんじゃないですよ。「天災」じゃないんだから。この国の主権者の意思と決断によって、これから幾らでも変えていけるものなんですよ。
30年もの間賃金が横ばい。一方負担だけはみるみる引き上げられてゆく。物価だって上昇してゆく。挙げ句の果てにもっと投資をしなさいと促される……国民はいったいどのタイミングで憤るんだろうか。このまま行ったら持ち堪えられなくなる人で溢れ返りはしないでしょうか。(続)
富裕層や大企業は、財政援助、補助金、減税などを通して厚く保護されているのに、それ以外の国民が困窮すると自己責任だと平気で言い放つ。貧しいのは自分のせいだろうと断言する。国から援助を求めると乞食かとか、貧しいのを人のせいにするななどと容赦無く糾弾する。(続)
私達は子供達に理不尽さを受け入れさせるのではなく、社会に放置されてきた人権の侵害と一緒に向き合い、なくす努力をしなければいけないんです。つまるところ、社会は決して理不尽である必要はないし、理不尽さを受け入れ続ける必要もないんです。
逆に言えば、社会は理不尽なものだと人々に受け入れさせることで、放置され、守られてしまう人権の軽視、侵害があるんです。そもそも「理不尽」というような曖昧な表現を使って問題の本質を隠す必要はないんです。理不尽さの正体はしばしば露骨な人権の侵害です。尊厳の侵害です。(続)
社会は理不尽なものだから。学校は理不尽さに慣れる練習をするところだよ。繰り返しそう言われると「理不尽さ」というのは理由もなく存在し、受け入れる以外にないというふうに聞こえてしまうかもしれません。しかし違うんですね。理不尽さの中身は搾取であり、ハラスメントであり、虐待でもある。(続)
そういえば、わが国日本でも、前のめりになって導入し、広めようとした政治家がいらっしゃいましたね。
米新聞コラムニストは実際はお金はトリクルダウンなんかしませんという逆の意味で使っていたというからもう訳がわかりません。いや、そんな滅茶苦茶な理論が実際に採用されるはずがないじゃないか思う人もいるかも知れません。しかしアメリカを筆頭に様々な国で導入されてきた「政策」なんです。(続)
困窮する市民よりも先に富裕層に国のお金を回すための、ろくでもない言い訳だとも言えるかもしれません。お金持ちをさらに裕福にするためのでっち上げ(ライシュ米元労働長官)だと厳しく非難されるのも納得。はじめてお金の流れに関して”トリクルダウン”という表現を使った人の一人だとされる(続)