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赤子は無力で力強い混沌ですから、育てる側はどうしたって“我慢して疲れる”ことになりますが、サービス提供者側の自覚も保護者の自覚もない人は、我慢も疲れもごめんだというわけなので、ここに齟齬が生じ、負荷の高さを分かち合える相手がいるはずだった前提が覆され、妻は絶望に突き落とされます。
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一方で、妊産婦・経産婦の女性に対しても、周産期でないかのような、産後でないかのような、赤子のいない家であるかのような『サービス』を期待し、自分が子へのサービス提供者側に回ったという自覚のないままのパートナーがいるのがこの場合の『論点』です。
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『お互いが「対話的に」協力していく』と言っている暇はだいたいの場合において無く、今すぐ動ける者が動く必要があり、できなければ一家がノロで数日間再起不能に陥るような、具体的なトラブルに発展したりします。
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介護は大変です。家の中で人が人を何年も介護し続けるのは困難です。社会の支援と介入、福祉の拡充が必要です。
子育ては大変です。家の中で人が赤子を死なせず育て上げるのは困難です。社会の支援と介入、福祉の拡充が必要です。
大変さを甘く見たことで失われてきた命から、学ぶべきことがあります。
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出勤直前に吐いた子を抱き上げて宥めるのは? 朝イチで小児科に連れて行くのは? 職場に遅刻の電話をするのは? 吐瀉物を片付けるのは? 後で子どもが食べられそうなものを考えて買いに行くのは? その間子どもを見ておくのはどちらにしましょうか?
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なぜ熱を出したのか、なぜ嘔吐したのか、教えてくれる人はいません。日々の観察、日夜の育みを通じて、傾向を捉え、把握して予測して明日に活かす、その連続です。
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きょうだいがいた人でも、自分の子育ての経験はないのでゼロからのスタートになるでしょう。育児書に書かれているのは基本的な事柄にとどまり、あなたの赤ちゃんが何を好み何を怖がるか、いつ喋り出しいつ歩き出すかなど、どこにも記されていません。
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親同士で細かな分担、たとえばゴミ出しは夫がやって哺乳瓶を洗うのは妻がやりましょうねといった分担を決めておくのはできるでしょう。では、夜の2時にむずがり泣き出した子を抱っこしてあやすのはどちらにしましょうか? 3時は?
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虐待サバイバーが自身の受けた虐待を子に繰り返すことなく連鎖の最後となり全身全霊の愛と持てる全ての工数を子に注ぎ込んで子どもを慈しみ育てていても、ニュースにはならない。でもそうやって、手持ちの愛ゼロどころかマイナスから始めて、血を吐く思いで尽力している人がいるのもまた事実。
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それをパートナーと乗り越えていこうという気概、そのための準備、共に育てましょうねという同意を拠り所に妊娠を継続し、長期の苦痛を経て出産に至るかと思います。「産後、パートナーの無理解に嘆くつもり」で妊娠・出産という大ダメージを被る事業に手を出す人は多数派ではないでしょう。
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産めない、そもそも子を持つつもりはない、そう訴えても産科医は夫婦間レイプを理解せず、中絶には同意が要るの一点張りだったことを思い出す。結果、生まれた子どもが素晴らしい存在であることとは全く異なる話として、子どもを守り育むのが、社会的に強くないわたし一人しかいない惨状が生じている。
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障害が見つかったら、自分たちの親にはどちらが説明しますか? 子の担当医とはどちらが頻繁に会いますか? 入院に付き添うのは? 朝夕、薬を飲ませるのは? 痰の吸引は? 備品の調達は? 知能検査に付き添うのは? 発話訓練は?
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また子どもを産むことは一人で望んで叶うことでもなく、人間は単性生殖でもなく、子どもの保護者は基本的に二人以上いて然るべきとされるところ、保護者になりきれない人(多くの場合で夫)がその実すくなくないという現実問題があります。
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わたしよく「おうちで介護してて偉いね、慣れてるから大人になったら介護の仕事できるね」と言われたんですが“置かれた場所で咲きなさい”は多分にそういう暴力を含む説諭的な側面があり危険な言い方だと思っています twitter.com/misetemiso/sta…
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わたしはこれからもそういう意図で、はからずも苦労の渦中に放り込まれた誰かに向けて、海に小瓶を流すように呟くつもりでいます。「残念な過去と残念な家族は変わらずとも、あなたの未来は選択で変えられますよ」と。
少しは「産まなきゃいいのでは?」への回答になりましたでしょうか。
以上です。
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その問題を見ず、母親の嘆きにだけ焦点を当てれば、「嘆くくらいならなんで生んだの?(産まなければいいのに)」という発想が生まれるのも仕方のないことでしょう。
しかし大半の初産において、妊娠者は「子を育てることの負荷の高さ」を漠然と想像しこそすれ、
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隙間に落ちている。児相に電話する。子どもは可愛いですかと言われる。可愛いですと答えれば、それなら頑張れるわよ、と励まされる。何をどう頑張ればいいのかな、とぼんやり思いながら、多方面に詫びのメールを書き連ねる。この度の欠勤で、キャンセルで、ご迷惑をお掛けして誠に申し訳ありません。
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切迫する現在の責任を、過去の本人の選択に見いだすのは、冒頭述べたように技術的にはとても簡単に問題をないことにする方法です。しかし問題はすでに生じ、過去は変わらず、人間も容易には変わりません。視野が狭まるほどの悲しみと落胆の中にあっても、未来が残っていることだけは確実な事実であり、
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この瞬間、すさまじい負の感情が芽生えたにもかかわらず、それを抱えたまま我慢して生きそして老いたのがかつての女性たちであり、わたしたちはそれを嘆きの伝聞として知っています。昔は反撃も逃走も今ほど自由にならなかったことでしょう。
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本当に申し訳ございません。わたしはむしろ子どもに詫びる。一寸先が闇の日々、子どもはそんなこととも知らず楽しく無邪気に遊んでいる。どこまで逃げ切れるだろうか。この子を大人にできるだろうか。考えれば不安に絡め取られるから、言葉に託して、放流する。さよなら不安。おはよう、現実。
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ここまでお読みになったらお疲れ様です。そろそろしめましょう。
ダブルスーツさんは素晴らしいことにまだ20歳ということなので、これからどんな人間にもなれますし、素敵さに磨きをかけることもできますし、素敵な人に出会える可能性も持っていますね。
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でも今は、かつてよりは多少、女性の人権の扱いもマシになり、服従以外の選択肢もある時代になりつつあるとわたしは見ます。それはひとえに先人たちのおかげです。死なずとも殺さずとも、離婚することで『駄目な夫』から離れる選択肢が残されています(実現可能かどうかは個別の状況によりますが)。
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なんで、家族の体がままならないことを、自分の仕事を代わってもらっているわけでもない赤の他人に説明して、謝らなくてはいけないのだろう。その頃からずっと、理不尽に感じてきて、また同じ間隙に挟まっている。要ケアの家族を持つ人間は、社会の機構に乗れないのに、ケアの支援もさして無い。
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病院に勤めるようになって、知った。限界です、と家族のケアに力尽きて訪ねてくる家族を、病院は必ず受け入れる。その後の暮らしを模索する。ただ、病名がつかない人は助けられない。熱を出しがちなだけの子どもを連れた母が限界を伝えたところで、繋がらない電話番号を案内されるにとどまる。