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五十嵐君がこのあと出てこなくても、安子とるいの邂逅がなくても、竹村夫婦の再登場がなくても、それはそれでいいと思う。#カムカム はそれを野田親子を出すことで、暗に教えているのだ。茶道でいう「一期一会」。一生に一度の会のように。一生に一度きりの出会いのように。人生そう都合よくないもの。
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深津絵里さんの出演したCMは、1988年のJR東海「ホームタウン・エクスプレス Xmas篇」遠距離恋愛のカップルがクリスマスの夜に新幹線に乗って再会するストーリー(当時15歳)。よく「クリスマス・エクスプレス」と言われますが、そのシリーズは翌年の牧瀬里穂さんの出演したCMからですね。#カムカム
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黄瀬川の陣で頼朝は義経と対面するが、この様子は後三年の役で源義家が清原武衡・家衡に苦戦していると聞きつけた弟の義光が、左兵衛尉を辞して陸奥国に下り兄と共に戦ったことになぞらえている。対面のときにオーバーに義経の手を取って涙を流したのも、義家・義光の故事の再現。#鎌倉殿の13人
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富士川の戦いは近年、平維盛率いる平氏の軍勢と武田信義率いる甲斐源氏の軍勢との戦いであって、頼朝の軍勢は直接的に戦っていないと考えられている。まあ、それ以前に士気も低下、逃亡兵も多かった平氏方は甲斐源氏の軍勢とも戦わず、水鳥の羽音を敵襲と誤認し撤退してしまう。 #鎌倉殿の13人
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殺生石は玉藻前(九尾狐)が逃げた那須の地で三浦介義明、千葉介常胤、上総介広常と陰陽師・安部泰成により討伐されて石と化した。だが毒を発して人や動物を殺めたため殺生石と呼ばれた。至徳2(1385)年玄翁和尚によって打ち砕かれて各地に飛散したのだから、割れたところで九尾狐は現れないだろう。 twitter.com/Lily0727K/stat…
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#カムカム は「伏線」というより、「長い長い人生を見ていると、こういうことあるよね」とごく自然に過去と現在が繋がって、見ている側もスッと腑に落ちることが多い。最近は何でも「伏線」と言いがちだが、良いドラマは川の流れに浮き沈み、現れては消える木の葉のように、物事の繋がりに無理がない。
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【妄想】義経が腰越の藤平太に「荷車一杯に芋を積んで帰ってくる」という。この「芋」ってもしかして歌舞伎の『御摂勧進帳(ごぞんじかんじんちょう)』別名「芋洗い勧進帳」の芋なんじゃない?だとすれば、荷車一杯なのは敵の首。治承寿永の乱で鬼神の如き活躍をする義経のフラグ。
#鎌倉殿の13人
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サイコパスと言う勿れ
#鎌倉殿の13人
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血筋のいいことを鼻にかけ、坂東武者を下に見る、そんなものに愛娘をやれるか!
伊東祐親の言い分も分からなくはない。支えてくれている者を下に見る態度を、生来の人たらしで隠しているだけだものな。
#鎌倉殿の13人
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武衛は兵衛府の唐名。源頼朝が任じられていたのは右兵衛権佐(のち解任)のため、「佐殿」と呼ばれている。『吾妻鏡』の中では唐名より「武衛」と表記されている。右兵衛佐であれば唐名は「武衛将軍」。のちに斯波氏の宗家は当主が代々「左兵衛督(佐)」となるため「武衛家」と呼ばれる。#鎌倉殿の13人
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視聴者は「算太」だと知っている。でもこれはひなた篇。あくまでも視点や思考は「ひなた」が中心。だから見ず知らずの「謎の振付師」なのだ。だからこのまま何も明かされず、謎の振付師として終わってしまっても、それはひなたの物語だから仕方ない。#カムカム
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頼朝が上総広常の遅参を「戦場では役に立たない、帰れ!」と叱責したのも、広常が「大将の器でなかったら頼朝の首を取って大庭のところに届けるつもりだった」というのも、記録として残されていますね。
#鎌倉殿の13人
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醍醐禅師全成。別名を悪禅師という。駿河国では、つむじ風に乗って人を切りつける妖怪「かまいたち」のことを「悪禅師の風」という。全成が悪禅師と呼ばれていることにかけて、「風を起こせる」「かまいたちを起こせる」という話にしたのだろう。三谷さんの洒落ですね。
#鎌倉殿の13人
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源義朝と常盤の子、醍醐禅師全成。以仁王の令旨を聞きつけ、醍醐寺を抜け出し東国に下る。その途上佐々木兄弟と邂逅し、石橋山の敗戦後であったため相模国高座郡渋谷荘に匿われる。治承4年10月1日に下総国鷺沼の宿所で頼朝と対面した。このあと駿河国阿野荘を与えられ阿野全成を称する。#鎌倉殿の13人
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刀は、斬り手によって名刀にもなればなまくらにもなる。
頼朝はお飾りと言っていたことを汲み取れば、頼朝をどう使うか、その使い手の力量で名将にも凡将にもなるということを梶原景時は言いたいのだな。それを義時にいうのは、今後を考えればなかなかだ。#鎌倉殿の13人
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スノーボードなどの近年オリンピックに採用された競技でよく見られる「最高のパフォーマンスを見せたり、果敢に攻めた選手に対して、国や所属など関係なく選手同士が惜しみない称賛をする」あの行為こそ、オリンピックの精神なんじゃないのかね?どこの国が何個メダル獲った云々だけじゃないのよ。
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ひなたの進之介を斬ってしまう演技に、上映の社長は固まり、本を書いた轟監督は「壊された」と憮然とし、テレビプロデューサーは満面の笑みで審査する。これを「面白い」とみるか「だめだこりゃ」とみるか、映画人とテレビ制作サイドで反応が違っているのが面白い。 #カムカム
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足袋って疲れるんやな……何気なく言ったけど、その足袋はどこの足袋?雉真足袋?きじまタビなの?ひなた、あなたの大叔父さんが作っているものかもしれないわよ!
#カムカム
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【訂正】ここで「平安期」と書きましたが、京で一里を三十六町と計算するのはこの鎌倉幕府成立よりも少し下るようです。ですので頼朝の勘違いはなさそうです。里程としては二十五里≒16.35キロでしたから、ただ歩きたくない、が先立っただけかもしれません。
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三浦義澄の父・義明が居城の衣笠城を枕に討死したのは89歳のとき。これにより三浦一族が生き残り、頼朝を支えたことから、十七回忌の法要の席上、「(義明の)身は滅んでも今日も生き続けている」と頼朝が言ったことから、義明は享年の89歳に17回忌の分を足して、106歳まで生きたとされた。#鎌倉殿の13人
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この話から三浦大介(義明)は長命の代名詞となり、百六つまで生きたといわれるようになる。落語『厄払い』の中に出てくる厄払いの祭文では、「鶴は千年、亀は万年、東方朔は八千歳、浦島太郎は三千年、三浦の大助百六ツ」と長生きの代表として登場する。#鎌倉殿の13人
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我が子を求めて伊豆権現までやってきた八重が目にしたのは、千鶴丸の墓。これではまるで能の『隅田川』ではないか。
#鎌倉殿の13人
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平安朝の一里は京では三十六町(約3.9キロ)であったが、東国の多くでは一里を六町(約650メートル)と計算していた。伊豆権現まで二十五里と言われたら、京の里程では97.5キロだが、東国では16.35キロとなる。佐殿がやめたのは100キロ近く歩かねばならないと勘違いしたのではないだろうか?#鎌倉殿の13人
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ヤフオクをたまに覗くと面白い発見がある。利休忌が近くなったので「利休像」が出品されているのだが、利休像といいながら何点か「松尾芭蕉像」が混じっている。構図は似ているが持ち物が違ったり、箱書に「ばせを像」としてあるが草書で読めなかったりと、ちょっとした間違い探しのようだ。
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ひなた、『ノストラダムスの大予言』に惑わされるな!地球も人類も滅亡しないどころか、『ガラスの仮面』は2022年現在においても完結していないから! #カムカム