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「義経」の那須与一といい「麒麟がくる」の毛利新介といい、大河での役どころが美味しすぎる今井翼
#麒麟がくる
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当時、富岡製糸場の伝習工女だった和田英の『富岡日記』には、尾高惇忠が製糸場の職員一同とお花見に行ったり、「お前方一同よく精を出して実に感心だ」と直々に言われたなどという記述があり、惇忠の人柄が感じられて面白い。
#青天を衝け
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後年の渋沢栄一談
「新選組の連中と口論して、まことに腹も立ったが、あるいは命を失うことになりはしないかという気がした。
当時の新選組といったらそれこそ飛ぶ鳥も落とすほどの暴威をふるったもので、子供など泣くと『新選組が来るぞ』とよく口にしたものである」
ナマハゲか
#青天を衝け
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オサキギツネはキツネの憑き物。
九尾の狐が那須で殺生石に化けた後、僧が祟りを鎮める為に殺生石を割り、その破片の一つが上野国(群馬県)に飛来し、オサキになったという伝説がある。
曲亭馬琴が編集した奇談集『兎園小説』によれば、尾が二股に裂けている為「尾裂」と表記されている。
#青天を衝け
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この寂寥感を滲ませた笑顔が、本当にすごい。
草彅くんの表現力が深すぎて、毎回驚かないシーンが無い。
#青天を衝け
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種子島の鍛治の棟梁であった八板金兵衛は美濃国関の鍛冶職人だった。
天文12年(1543年)種子島時尭より、国産の鉄砲を製造するよう命じられ、天文14年(1545年)にわずか2年で火縄銃の国産化に成功。
#麒麟がくる
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学は無くとも、三野村利左衛門には理屈ではなく本能的に時代の流れを見通す才能があったんだろうな。
#青天を衝け
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リュークやってた中村獅童さんの梶原景時が名前書くなんて、マジもんのデスノートやないか。
#鎌倉殿の13人
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ある意味その通りになった
#麒麟がくる
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蘭奢待は正倉院に収蔵されており、目録上の名称は「黄熟香」
全長156cm、最大径は43cm、重量11.6kgの沈香。沈香の中でも良質のものが伽羅となる。
足利義満、足利義教、足利義政、土岐頼武、織田信長、明治天皇らが切り取っており、信長や義政らの切り取った跡には付箋が貼られている
#麒麟がくる
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井伊直弼、死の帳面(DEATH NOTE)
吉田寅次郎(松蔭)の名前もあり
#青天を衝け
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渋沢ゑいは慈悲深く賢い人で、近所に住んでいたハンセン病の女性にも怖れずに、食事や着物の世話をしていた。
周囲の人が当時の間違った知識から「うつるかもしれない」と注意しても、「そんな事はない。お医者に聞いたらうつらぬとの事だった」と言い、親切にしていたという。
#青天を衝け
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岸は荒木村次との離縁後、明智左馬助と再婚しているので、この場面は一種のフラグ
#麒麟がくる
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室町時代には砂糖が輸入されるようになったが、庶民に手の届くものではなく甘味といえば、米を主材料に大麦、小麦などを加えて糖化させた『水あめ』を使用。菓子としてではなく、調味料としてしか認識されていた。
本格的に水あめがお菓子として売り出されたのは江戸時代に入ってから。
#麒麟がくる
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めっちゃシリアスなシーンなんだけど、伸びかけ月代のリアルな表現に笑ってしまった。
#青天を衝け
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徳川慶喜は「渋沢を水戸へやると如何なることが起るか分らぬ。民部は大変渋沢をしたって居って、是非渋沢を水戸藩士にしようとしているが、若し渋沢が水戸藩で仕事をすれば水戸の人々は好くは思はぬに相違ない。だから渋沢が水戸に行く事は渋沢の為めにならぬ」と一翁を通して伝えている
#青天を衝け
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徳川慶喜の亡くなった大正2年11月20日は寒い日で、葬儀の数日前に雪が降り道が凍っていたが、それにもかかわらず、慶喜の葬列を見送ろうと上野から谷中までの沿道には多くの人々があふれ、沿道の家々は門を榊や花で飾ったという。
#青天を衝け
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こんなん泣く…
#いだてん
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後に渋沢栄一は、大沢源次郎の捕縛について新選組と論争した時に「土方歳三が割合にも理屈のわかる人間で自分に同意してくれたため事が治まった」と語っているが、新選組と渡り合った事で自分が「案外、気骨のある男だ」と幕府陸軍内部で評判になった事もちょっと自慢ぽく語っている。
#青天を衝け
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ここで篤太夫が
「ミーはおフランス帰りざんす」
とか言ったらどうしようと思った。
#青天を衝け
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今回の今井宗久の茶道の所作の美しさを見て、数年前に某バラエティ番組での茶会の作法を格付けする問題で、陣内孝則さんがほぼ完璧だったのを思い出した。
#麒麟がくる
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波岡一喜さんって、本当に月代が似合う
#青天を衝け