takuma(@takuma290)さんの人気ツイート(古い順)

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西銘恒三郎氏が100億減らしたらと提案してたなんて…。事実なら、もっと沖縄県民に伝えてほしい… twitter.com/urutobi/status…
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母は沖縄語を教えませんでした。戦前〜戦後の苦労を越えて、 「あんた達は、日本人として生きていくんだから島の言葉を使ったら不利になる。」と。 日本社会で生きる中で、言葉を理由に苦労した人が沢山いること、 言葉を理由に日本兵にスパイ扱いされ殺害された人もいることをここに書いておきます。
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"沖縄の住民からなる防衛隊や学徒隊は、日本兵よりもより過酷な任務を背負わされ、戦死者数はとびぬけて多い。 そこにも第32軍の、沖縄の土地だけではない、住民そのものを「皇軍」の砦として利用し、捨て駒にした「持久戦略」の汚さがあった。" battle-of-okinawa.hatenablog.com/entry/1945/04/…
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"軍は言葉を変え、法をねじ伏せ、14歳から17歳の沖縄の子どもたちを名護国民学校に集め、スパイや謀略家を養成する陸軍中野学校出身者の指揮の下、少年兵のゲリラ部隊を編成した。" battle-of-okinawa.hatenablog.com/entry/2018/04/…
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〜引用〜 "なぜ沖縄は基地に反対するのか(中略) 日本軍は伊江島にやってきて、東洋一とよばれるほどの飛行場基地を構築した。 戦争がやってきたとき 東洋一の基地は、島を守っただろうか。 その重い答えを、 本土のみなさんでしっかりと受け止めてほしいと思います。" battle-of-okinawa.hatenablog.com/entry/2019/08/…
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"日本軍に殺された、殺されかけた・・・。沖縄戦の証言をたどれば、おびただしく出てくる、軍法会議もされないスパイ容疑者の「処分」。処分は、むろん処刑の意味である。…なぜ日本軍はそこまでスパイ陰謀論に傾倒したのか。" battle-of-okinawa.hatenablog.com/entry/1945/04/…
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"今帰仁に海軍の基地があり、米軍はそれを標的にして運天港を的確に攻撃した。 日本軍の惨敗兵は、自分たちの敗北の原因を地元住民、沖縄人が密告したせいだ、などと狂信的に信じるようになった。…日本軍にとって住民は食料を奪う対象か、目障りな邪魔者でしかなかった。" battle-of-okinawa.hatenablog.com/entry/2019/05/…
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立派な服を着た商人と政治家がやってきて言いました。 「ここを埋め立てれば島はもっと発展し、客が沢山くる。君たちの働く場所もできて、もっと豊かになるんだ。」 それを聞いた小さな子が聞きました。 「たくさんのお客はいったい何をしにくるの?軍港を見にくるの?」 #浦添西海岸埋め立て反対
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"米軍は彼女が「慰安婦」でありかつ日本軍から救護の訓練も受けていた「看護婦」であることを…把握していた…    歴史の陽のあたらぬ場所へと追いやられた女性たちは、それでも懸命に生きて、傷ついた島民たちの医療にまわり、子どもや老人たちの命を救っていた battle-of-okinawa.hatenablog.com/entry/2019/04/…
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どこででもみられた沖縄の海が、 今、どんどんなくなっています。 陸地があって、アダンやクサトベラの林があって、砂浜があって、海があって。 川があって、泥砂があって、干潟があって。 そこにはたくさんの間の世界がひろがって、それはそれは豊かな生き物が暮らしていました。 ↓
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ある中頭のおばあさんは言った。 「収容所で"Japanese"と"Ryukyus"に別けられた事には違和感は何もなかった。もともと本土の人達からは区別されていたから」と。 日本復帰を望んだのは 「自分は日本人と心から思っていたわけではなく、あのアメリカーから早く開放されたかった。…↓
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→…アメリカから離れたら食べられなくなると言う人もたくさんいたけどねぇ。だから、本土並みにならないとわかった時にはやっぱり…と思った。」 今、何人だと思うかと質問したら、「だぁ、何人かね。日本国籍だから日本人であるさ。でも、国のカタチなんていつ変わるかわからんものよ。…↓
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→シールと同じ。琉球なんて心の拠り所ではあっても滅んだ国さぁ。物呉ゆすどぅ我御主。そうやって立てなくなって。このままだったら、次また立つ事があったとしてもその時は自分で立つんじゃない。立たされるのよ。その時は私はもういないさぁ。」 コーヒーにブライトを入れながら聞かせてくれた。
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「私はずっと日本人。日本人として生まれて、生きてきた。」 北谷のあるおじいさんの話。 戦争で親兄弟を失い、家も畑も米軍に基地として取りあげられた。 「アメリカーのやりたい放題だったんだよ。今もまだ続いているけど、こんなものじゃなかった。」 ↓
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「私はヤマトの人は信じていない。」 戦前、戦中の経験、戦後の世情からそういう想いに至ったという中部地区のおばあさん。以前読んだ新聞を出して怒っていた。 「中国の一部になりたい人がどこにいるねぇ?バカバカしい。沖縄の新聞社は中国のスパイだとか、↓
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↓ …県知事は中国の一部にしてほしいと中国に嘆願しているとか、普天間基地は元々田畑で人は住んでなかったとか、こんな妄想があるか。そんな事を本気で信じる人にはあきれてものも言えない。戦中戦後の私達の苦労も想いも知ろうともしないで…。何が美しい国か。こういう人達が国を壊すのよ…。 ↓
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↓ …一番ワジワジーするのは今の沖縄の政治家さぁ。水が汚されても何もできない。やんでぃパイプてー。可哀そうなのはあんたがたの子ども達だよ。うり!お菓子食べなさい!子ども達にも持って帰りなさいよー。」 ぽたぽた焼きの袋を私の方へ優しくポンと投げ渡してそう言った。
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あるフィリピン引揚げのおばあさん。 「"死の行進"。ああやってみんなで逃げたのよ。沖縄の人は別されて、列の後ろ側から歩かされた。照明弾があがったらみんな地面に伏せて、そしたら一勢攻撃。たくさん死んだ。死んだ人を踏んで歩いた。↓
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ある、やんばる産まれのおばあさんのお話。 「娘時代はお姉さん達に憧れて、ヤマトの紡績に行きたくて仕方がなかった。許嫁がいたんだけどね、乱暴ものだったから嫌で逃げたかったのよ。やんばるは食べるものもろくになくてソテツを食べた。毒抜きにはコツがあるのよ。水に何日かつけるの。 ↓
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↓ 紡績に行ったら、ヤマトの人から沖縄の人間はいじめられたよ。朝鮮半島の人たちもいじめられた。沖縄の人は今度は朝鮮半島の人をいじめよった。喧嘩もしたよ。どっちもいじめられる同士だったから、あんまりヤマトの人のいじめが激しい時は一緒になって喧嘩したりした。 ↓
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↓ 朝鮮半島の人たちは沖縄の人とはちがってはっきりと言うでしょう。ヤマトの人にも負けないわけ。見ていて気持ちよかった。そのうち友達もできたりしてね。だけど今見ていると、あの国はすごいと思う。沖縄みたいに諦めたりしないさぁ。」
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宜野湾のあるおじいさんの話。 「戦争中は敵も味方もなかったよ。ガマに隠れていたら、うちは幼い妹がいたもんだから日本の兵隊が殺せというわけさ。母親が戸惑っていると軍刀ぬくもんだから、仕方なく家族でガマから出た。少し歩いた時に爆弾が飛んできて破片で母親と妹がやられたわけ。…↓
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↓ …ばあさんと岩陰に隠れていたらアメリカーが来てね、そこで捕虜になった。殺されると思っていたら、中城の人がアネーアランディドーと教えてくれた。それでも震えながら収容所に連れて行かれたのを覚えている。」 日本復帰についてたずねると、 「あんたは復帰前の事どれくらい知ってる?…↓
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↓ …アメリカーに沖縄の人間がどう従ったか、どう逆らったか。当時の米軍のやり方を知らないといけないよ。たぶん本土の人は知らないんじゃないかな。僕は復帰して良かったと思うけど基地の事についてはもっと本土は考えるべきだよ。」 自分は何人かとたずねると 「日本人さぁ。うちなーんちゅ。」↓
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↓ 沖縄、琉球についてたずねると 「親、先祖と同じ、大切なものさぁ。僕は辺野古移設はやむをえないと思っている。山原の人には申し訳ない…。ただ、やむをえないその先には、ちゃんと沖縄の自立がないといけない。今見ているとそうはなっていないところがとても虚しい…。↓