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宜野湾のあるおじいさんの話。
「戦争中は敵も味方もなかったよ。ガマに隠れていたら、うちは幼い妹がいたもんだから日本の兵隊が殺せというわけさ。母親が戸惑っていると軍刀ぬくもんだから、仕方なく家族でガマから出た。少し歩いた時に爆弾が飛んできて破片で母親と妹がやられたわけ。…↓
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「ヤマトには伝わらない。そう思ったらおしまいではあるけどね。」
そう話したあるおばあさん。
「戦時の時、私たちは島尻に逃げた。途中で3回かねぇ、日本兵にガマから追い出された。人か馬かもわからない腐って膨らんだ死体を踏んで逃げた。一緒に逃げた人たちは、私と弟以外みんな途中で死んだ。↓
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母は沖縄語を教えませんでした。戦前〜戦後の苦労を越えて、
「あんた達は、日本人として生きていくんだから島の言葉を使ったら不利になる。」と。
日本社会で生きる中で、言葉を理由に苦労した人が沢山いること、
言葉を理由に日本兵にスパイ扱いされ殺害された人もいることをここに書いておきます。
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ある中頭のおばあさんは言った。
「収容所で"Japanese"と"Ryukyus"に別けられた事には違和感は何もなかった。もともと本土の人達からは区別されていたから」と。
日本復帰を望んだのは
「自分は日本人と心から思っていたわけではなく、あのアメリカーから早く開放されたかった。…↓
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戦前の那覇をよく知るおばあさん。
「首里の人は着物に、那覇の人は食べ物にお金を使う。昔はそう言いましたね。戦前の那覇はとても綺麗だったんです。赤瓦の屋根が並んで、緑も多くて、うちの周囲は高い石垣があって、今思えば絵葉書のよう。映画館もあってね。↓
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あるおじいさんのお話。
「兄は体が不自由だったので、徴兵検査とおらなくて、とても悔しがっていた。だから、沖縄戦が始まる時、志願して防衛隊として進んで参加して、それっきり帰って来なかった。どこに骨があるかもわからん。」
「私たちは日本人として教育された。ただ、↓
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…独立というのも生きるために考えないといけなくなったと思う。今の日本政府をみていたら、米軍を見ていたら、私はそう思う。」
いつもは優しい顔のおばあさんから、初めて聞かされたお話。
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違うと言うなら、普天間基地くらいヤマトで引き取る姿をみせたらいいと思う。その姿が本当に見たい。今の政府見てたらあの日本兵達と同じに見える。沖縄を守るんじゃない。沖縄を使うのよ。いつも米軍の顔だけみて。」
何人だと思うか問うと
「うちなーんちゅ。私達は日本人にはなろうとしても…↓
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骨は見つからないから実家の墓には糸満で拾った石を入れてある。最後にいたガマではね、投降するってなった時、日本の兵隊は歩けなくなった年寄から着物をはいで自分がつけて、女子供を前に立たせて出ていったんだよ。日本の兵隊にも色々な人がいて優しい人もいたけどね。あの姿、忘れられない。↓
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悲惨な状況は人を人じゃなくするけど、沖縄じゃなくてヤマトが戦場になっていたら、あの日本兵達は同じ事をしたかね…。」
復帰の事を問うと
「アメリカもひどかった。優しい顔して食べ物とらして、悪いことを笑ってしよった。復帰は、アメリカとヤマトで沖縄をはんぶんこーしてある様なもんよ。↓
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…ばあさんと岩陰に隠れていたらアメリカーが来てね、そこで捕虜になった。殺されると思っていたら、中城の人がアネーアランディドーと教えてくれた。それでも震えながら収容所に連れて行かれたのを覚えている。」
日本復帰についてたずねると、
「あんたは復帰前の事どれくらい知ってる?…↓
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…アメリカーに沖縄の人間がどう従ったか、どう逆らったか。当時の米軍のやり方を知らないといけないよ。たぶん本土の人は知らないんじゃないかな。僕は復帰して良かったと思うけど基地の事についてはもっと本土は考えるべきだよ。」
自分は何人かとたずねると
「日本人さぁ。うちなーんちゅ。」↓
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沖縄、琉球についてたずねると
「親、先祖と同じ、大切なものさぁ。僕は辺野古移設はやむをえないと思っている。山原の人には申し訳ない…。ただ、やむをえないその先には、ちゃんと沖縄の自立がないといけない。今見ているとそうはなっていないところがとても虚しい…。↓
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…沖縄は時代の波に度々のまれる場所。だから自立できる力をつけないとダメである。戦争は二度と起こしてはいけない。あまり隣りの国を刺激するやり方は沖縄にとってはとてもまずい。」
古いドル硬貨並べて、価値を自慢しながら話してくれた。
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…まだなれていないのよ。うちなーんちゅだという事だけが揺るぎないこと。昔よく、おとー達が酒飲むと琉球独立の話をしていた。それを聞いていて私は腹立ってねー、泡盛の瓶を外に投げたこともある。そんな夢物語どうやって暮らすのかって。独立は目的じゃないさぁ。だけどね、今は違う。↓
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「私はヤマトの人は信じていない。」
戦前、戦中の経験、戦後の世情からそういう想いに至ったという中部地区のおばあさん。以前読んだ新聞を出して怒っていた。
「中国の一部になりたい人がどこにいるねぇ?バカバカしい。沖縄の新聞社は中国のスパイだとか、↓
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…こんな小さな島が、中国と喧嘩してどうするの。確かに昔の唐の国ではない。だからこそ、仲良くしないといけない。知ることから、話す事からさぁ。少なくとも、沖縄を占領した事はなく、王様をすびいていった事もまだないんだから。日米の軍艦になるよりはよっぽど未来があると僕は思うよ。」
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→…アメリカから離れたら食べられなくなると言う人もたくさんいたけどねぇ。だから、本土並みにならないとわかった時にはやっぱり…と思った。」
今、何人だと思うかと質問したら、「だぁ、何人かね。日本国籍だから日本人であるさ。でも、国のカタチなんていつ変わるかわからんものよ。…↓
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本島中部のあるおじいさん。
数年前に聞いてメモしてあったお話。思う事あって追加。
「今の人がはわからんはずだが…。私達は日本が負けるとは露にも考えてもいなかった。日本の兵隊も、"敵は沖縄に絶対に上陸させない、海の上で壊滅させるんだ"って言っていたし、友軍優勢という情報だった。↓
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→シールと同じ。琉球なんて心の拠り所ではあっても滅んだ国さぁ。物呉ゆすどぅ我御主。そうやって立てなくなって。このままだったら、次また立つ事があったとしてもその時は自分で立つんじゃない。立たされるのよ。その時は私はもういないさぁ。」
コーヒーにブライトを入れながら聞かせてくれた。
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明日は沖縄慰霊の日。
今日聞かせて頂いたお話をここに。
「慰霊の日は、朝起きたら火ぬ神と仏壇にうちゃとー(お茶湯)して手を合わせる。これはいつもだけど、慰霊の日は線香もうさぎる(供える)。それが済んだら糸満の方に祈るの。元気な時は、部落の慰霊祭にも、糸満の慰霊祭にも行きよった。→
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…軍艦みたいにしようとする。水の汚染の事だって米軍の顔をみて沖縄を守らない。
私はあの形の復帰は失敗だったんだと今は思う。恨みつらみではなくて二度と戦場にしないという思いでいたのに、またこの島々を良いように使おうとしている。この気持ちを言葉にするなら何という言葉かね。↓
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…いつも2等国民で本土の人間には劣るとされていた。だから積極的に日本的なものを取り入れたよ。戦争の時も忠義を尽くす、本当にその思いしかなかった。だから戦争が激しくなる中で見せられたあの日本兵の姿には言葉もなかった。そしてあの屈辱の日と言われる日。私達の想いがわかるかな。…↓
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"日本軍に殺された、殺されかけた・・・。沖縄戦の証言をたどれば、おびただしく出てくる、軍法会議もされないスパイ容疑者の「処分」。処分は、むろん処刑の意味である。…なぜ日本軍はそこまでスパイ陰謀論に傾倒したのか。"
battle-of-okinawa.hatenablog.com/entry/1945/04/…