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あったことをなかったとされていく時代の中で
恨みではなく
もう一度ひろく知ってもらうために。
"通訳兵として沖縄戦に参加したハーバート柳村さんは、捕虜への尋問中に日本の軍人に殺された人が多数いたとの証言を聞いたと話した…。"
battle-of-okinawa.hatenablog.com/entry/2019/06/…
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78年前にアメリカに取り上げられた土地はそのまま還ってこず
同じ島の中で逃げた家族の骨もわからぬまま。あの場所で骨が出たと聞けば、もしかしたらと思う人もまだまだいて
工事をすれば不発弾
沖縄は、戦後処理も終わらぬまま新たな戦前を突きつけられて…
きっと本土の景色とは違うのでしょうね。
3
明日は沖縄慰霊の日。
今日聞かせて頂いたお話をここに。
「慰霊の日は、朝起きたら火ぬ神と仏壇にうちゃとー(お茶湯)して手を合わせる。これはいつもだけど、慰霊の日は線香もうさぎる(供える)。それが済んだら糸満の方に祈るの。元気な時は、部落の慰霊祭にも、糸満の慰霊祭にも行きよった。→
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"今更遅い"
"決まったことは変えられない"
そうやって生み出されてきたたくさんの損失、没落、不幸、悲劇。
それを私たちは沢山たくさん見せつけられてきたじゃありませんか。
#浦添西海岸埋め立て反対
#神宮外苑
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…だから、えー、正確な情報とか、教育というのは本当に大事なんだよ。」
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本島中部のあるおじいさん。
数年前に聞いてメモしてあったお話。思う事あって追加。
「今の人がはわからんはずだが…。私達は日本が負けるとは露にも考えてもいなかった。日本の兵隊も、"敵は沖縄に絶対に上陸させない、海の上で壊滅させるんだ"って言っていたし、友軍優勢という情報だった。↓
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「ぬーふすこーねーん(何の不足もないのよ)。」
いつも口癖のようにそう話していたおばあさんの話。
戦争のことについては
「あわりやたん。日本もアメリカもひどかった。思い出したくない。私は戦争の話はしない。二度と戦争はダメ。」語るのはいつもそれだけ。
戦後の暮らしと復帰について↓
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"沖縄県は、沖縄抜きで日米が勝手に進める沖縄の「本土復帰」に危機感を持ち、総力を挙げて「復帰措置に関する建議書」を作成
ところが屋良主席がその沖縄からの要望を国会に届ける前に自民党は衆議院の強制採決。屋良主席は到着先のホテルで報道陣からそれを知らされる。"
okinawa1945.hatenablog.com/entry/1972/05/…
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…あんまり目立たせたらあんなのが増えてしまうのよ。だから私達は目立たないように、沖縄出身である事を隠くす様に生きてきたのよ。黙って生きてきたのよ。だから、えー、あんまり沖縄、沖縄するなよ。日本はまだそんな国であるよぉ。」
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ある本土就労歴のある女性は言う。
「あんまりヤマトと沖縄の違いを目立たせてはいけない。あんた見たねー?何年か前に沖縄の政治家が本土で抗議行動したとき、ヤマトの人達が"琉球人は日本から出ていけ!って叫んでいたのよ。私はあれをテレビでみて驚いた。ああいう人達がまだ今もいる。↓
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…独立というのも生きるために考えないといけなくなったと思う。今の日本政府をみていたら、米軍を見ていたら、私はそう思う。」
いつもは優しい顔のおばあさんから、初めて聞かされたお話。
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…まだなれていないのよ。うちなーんちゅだという事だけが揺るぎないこと。昔よく、おとー達が酒飲むと琉球独立の話をしていた。それを聞いていて私は腹立ってねー、泡盛の瓶を外に投げたこともある。そんな夢物語どうやって暮らすのかって。独立は目的じゃないさぁ。だけどね、今は違う。↓
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違うと言うなら、普天間基地くらいヤマトで引き取る姿をみせたらいいと思う。その姿が本当に見たい。今の政府見てたらあの日本兵達と同じに見える。沖縄を守るんじゃない。沖縄を使うのよ。いつも米軍の顔だけみて。」
何人だと思うか問うと
「うちなーんちゅ。私達は日本人にはなろうとしても…↓
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悲惨な状況は人を人じゃなくするけど、沖縄じゃなくてヤマトが戦場になっていたら、あの日本兵達は同じ事をしたかね…。」
復帰の事を問うと
「アメリカもひどかった。優しい顔して食べ物とらして、悪いことを笑ってしよった。復帰は、アメリカとヤマトで沖縄をはんぶんこーしてある様なもんよ。↓
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骨は見つからないから実家の墓には糸満で拾った石を入れてある。最後にいたガマではね、投降するってなった時、日本の兵隊は歩けなくなった年寄から着物をはいで自分がつけて、女子供を前に立たせて出ていったんだよ。日本の兵隊にも色々な人がいて優しい人もいたけどね。あの姿、忘れられない。↓
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「ヤマトには伝わらない。そう思ったらおしまいではあるけどね。」
そう話したあるおばあさん。
「戦時の時、私たちは島尻に逃げた。途中で3回かねぇ、日本兵にガマから追い出された。人か馬かもわからない腐って膨らんだ死体を踏んで逃げた。一緒に逃げた人たちは、私と弟以外みんな途中で死んだ。↓
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…こんな小さな島が、中国と喧嘩してどうするの。確かに昔の唐の国ではない。だからこそ、仲良くしないといけない。知ることから、話す事からさぁ。少なくとも、沖縄を占領した事はなく、王様をすびいていった事もまだないんだから。日米の軍艦になるよりはよっぽど未来があると僕は思うよ。」
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…軍艦みたいにしようとする。水の汚染の事だって米軍の顔をみて沖縄を守らない。
私はあの形の復帰は失敗だったんだと今は思う。恨みつらみではなくて二度と戦場にしないという思いでいたのに、またこの島々を良いように使おうとしている。この気持ちを言葉にするなら何という言葉かね。↓
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…そうはならない復帰となった。それでも、日本政府は少しずつ沖縄の負担を軽くしていくつもりだろうと信じて待ったんだ。だけどだぁ、今もこんなだよ。地政学的とか、戦略上とか言う理由で、沖縄の負担なんて軽くしようとする動きはないどころか、沖縄を守るためだと言って、まるで↓…
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…あのイクサは何だったのか、やはり日本人じゃなかったのか、年寄が話していた事が本当だったのかと思った。だけど占領する米軍のやり方もとにかくひどかった。沖縄の土地はどんどん取り上げる。訴えに耳も貸さない。日本に復帰する、基地のない核抜き本土並みを訴えた。でも、…↓
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…いつも2等国民で本土の人間には劣るとされていた。だから積極的に日本的なものを取り入れたよ。戦争の時も忠義を尽くす、本当にその思いしかなかった。だから戦争が激しくなる中で見せられたあの日本兵の姿には言葉もなかった。そしてあの屈辱の日と言われる日。私達の想いがわかるかな。…↓
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あるおじいさんのお話。
「兄は体が不自由だったので、徴兵検査とおらなくて、とても悔しがっていた。だから、沖縄戦が始まる時、志願して防衛隊として進んで参加して、それっきり帰って来なかった。どこに骨があるかもわからん。」
「私たちは日本人として教育された。ただ、↓
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「嫁いで少ししてからだね。家も畑も米軍が使うから出ていきなさいって命令されて…。反対運動も盛んだったけど、結局鉄砲持ったアメリカの兵隊がきて、鉄砲向けて、家も畑も取り上げた。ブルドーザーで目の前で壊すのよぉ。見ていられなかったね…。」
米軍に先祖代々の土地を強制的に接収された後↓
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戦前の那覇をよく知るおばあさん。
「首里の人は着物に、那覇の人は食べ物にお金を使う。昔はそう言いましたね。戦前の那覇はとても綺麗だったんです。赤瓦の屋根が並んで、緑も多くて、うちの周囲は高い石垣があって、今思えば絵葉書のよう。映画館もあってね。↓