国末憲人 Kunisue Norito(@KunisueNorito)さんの人気ツイート(古い順)

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アンドリーウカ村の男性(75)。「台所を借りに来たロシア兵と一緒に料理をつくった」とのこと。ロシア兵は、凶暴な人、厭戦派、統制が整っている部隊いない部隊と、いろいろだったようで、一部には住民との奇妙な交流もあったようです。
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この近辺の農村では、激しく破壊された家とそうでない家とが混在しています。空爆や砲撃による破壊がまだらだったことを示しているのでしょう。
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いろんなものが転がっていて、兵器に詳しい人は興味を持たれるかもしれませんが。
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プレスツアーでは時間が限られるので、アンドリーウカ村を3日後に再訪しました。わずか3日間ですが、転がっていた兵器片や地雷らしきものは綺麗にかたづけられていました。各地から集まるボランティアが復興に勤しんでいるからです。もっとも。ボランティアの間では地雷被害も相次いでいるそうです。
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村の様子を語ってくれた中央のワーリャ・クリメンコさん(63)。左は夫のグリゴリーさん(66)。2人は、隣家を占拠して生活した2人の20歳前後のロシア兵と交流しました。「ベラルーシに行けと指示されたけど、実際の行き先はウクライナ。戦争なんかしたくなかった」と嘆いていたそうです。
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これは別のロシア兵が駐留していた家。あちこちから自転車を集めてきて、結局打ち捨てて行ったそうです。中高と農村を自転車通学していた私から見ると、自転車を粗末にしてはいけません。
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これはアンドリーウカ村に行く途中の空き地。さりげなく転がるロケット弾か何か。ナゴルノ・カラバフでもあちこちに転がっていた推進装置ですかね。
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兵器ごろごろ。兵器音痴なので何だかわかりません。
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これはロシア兵の兵糧袋だそうですが。
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拙稿です。近くの村の様子もおいおいお知らせします。 digital.asahi.com/articles/ASQ4M…
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キーウ西方のブゾヴァ村です。5階建ての集合住宅群が激しい攻撃で大破していました。旧ソ連の特徴かもしれませんが、ウクライナでは割と小さな村でも集合住宅が設けられています。この村はロシア軍に占領されて最前線になりましたが、一つ南の村はウクライナ側にとどまりました。
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ブゾヴァ村の集合住宅の崩壊跡。このように建物が崩れた跡には、しばしば大型のぬいぐるみが取り残されています。地元スーパーで大量に売っており、かなりの家庭にあるのではないでしょうか。また、立ち去る際にロシア兵が略奪しようと思わないほどの価値だといえるかもしれません。
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村によって被害のばらつきは大きく、アンドリーウカ村とブゾヴァ村との間にあるコロンシナ村では、犠牲者を出したものの、家屋の損害があまりありませんでした。地雷除去の終わった畑でジャガイモの作付け中。戦争は収穫に影響しそうですか。「出来不出来を決めるのは、ミサイルじゃないよ。天候だよ」
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キーウ西方の農村を回った後、ボロジャンカに立ち寄りました。マンションが攻撃を受けて真っ二つに割れた街。1週間ぶりの訪問ですが、がれきの整理が思ったよりも進んで、復興への意欲を感じました。下は、3棟並んでいたマンションの東側。ぶら下がっていた中央部分の壁は撤去されていました。
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チェルノモルカよりうまい魚料理がキエフにあると弁護士から聞いて、早速訪ねてみた。ポジールのフラグマン。どちらがうまいかは別にして、洗練度はこちらの方が高いようだ。一応戦時下の街でこれほどの魚が食べられるとは。
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どう考えても用途が間違っとる。キーウの某ラウンジで出てきた醤油。
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国際人道法であるジュネーブ条約は、病院など衛生施設への攻撃を禁じています。しかし、今回のロシア軍の侵攻では、医療機関が相次いで標的になりました。大きな被害を被ったキーウ周辺の病院を訪れました。
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キーウ西方、高速道路沿いのブゾヴァ村にあるアドニス産科病院は、空爆や戦車からの砲撃、銃乱射と放火を受けて廃虚となりました。まだ患者や医師らスタッフがいる中で攻撃が始まり、避難する人々を後ろから撃ったといいます。幸い院内で犠牲者は出ませんでした。
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病院の敷地内には、高速道路から見える妊婦の看板。「これを見て、ロシア軍もここが病院だとわかっていたはずだ」とスタッフは言います。
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病院の内部。最後に火を付けられ、相当部分が焼けました。
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ベビーカーもそのまま残っています。
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病院から西方を望みました。地平の右上に高速道路が走っており、戦車はそこから撃ってきたといいます。
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院内には日本のおむつ。エリエールのグーンでした。
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病院の管理人イゴール・シュルさん(55)。他のスタッフが避難する中で、1人施設に残り、病院が破壊された後もずっと寝泊まりを続けました。「ここは自分の家みたいなものだからね」。ロシア軍が来た際には、銃弾が危うく腕をかすめたそうです。
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シュルさんが現在も寝泊まりを続けている病院の一角。ロシア軍の占領中は電気が止まって携帯電話も充電できず、外部と連絡できない状態が20日続きました。心配した経営者が救出の救急車を差し向けましたが、シュルさんは避難を拒んだといいます。