1826
60年代にVサインはヒッピーによって平和のシンボルとなった。ベトナム戦争の真っただ中、ヒッピーは反戦の連帯感を高めるように互いにVサインを送り、コンサートなどでVサインを掲げた。Vサインはピースサインと呼ばれるようになり、カウンターカルチャーを象徴する行為でもあった。
1827
それがどうした?
どうもしない。
ところで、民が写真を撮る時、Vサインを出す骨髄反射的風習はどうやって生まれたかご存じか?
1828
教えられないものは存在しない。
貴方の認識は外部化されている。
貴方が何を認識するかは、とっくの昔に決められている。
1829
世界は欠損しており、
欠損を忌避するよう教育された民であふれている。
世界をある意味「ゴミ」と呼ぶことに同意できるなら、「欠損」に脱出のカギがあると空想してみよう。
ところが、民はもう欠損が見えなくなっている。
人類の大きな損失「欠損」。
1830
5回読みましたね?
そして諦めましたね?
1831
人が人の顔を見る時、その顔がゆだねている時の流動で移り行くものの平均値を見ているのか?
どうやっても見た通りに写真に写ってくれない人は、平均値に含まれない流動の「欠損」ばかりをレンズが捉えているのか?
トロピカルのお友達にそのタイプが多かった。
KLは欠損の中に広がる楽園。
1832
「ヨタ話」という字面を見てMIRAIを思い出す病的水素飢餓。
「ヨタ」?
夢に見る給水素ホースを持ったおじさんはどこですか?
この人ですか?「ト」
またこんど!!
1833
台湾のUFOキャッチャーは日本人を優遇するという噂を聞いたことがある(個体差あり)。
ところで洗車機は車が停止しているのに走っている錯覚に陥る。
私はそれで酔う。
1834
立ち往生の運転手はただ空間が洗われるのを見た後もう一度お金を入れた。
UFOキャッチャーでモルカーを取れなかったJKがもう一度機械にお金を入れるのに似ている。
(似ていない)
1835
初めて洗車機を使うのだろうか?
車を前進させないもんだから、洗車ブラシが空間を洗っている。
洗って洗って洗われた空間。
1836
MIRAIは電気自動車である。
水素と酸素を反応させて電気を発生させ、その電気で走る。
心に日の出を見ながら洗車機の前で立ち往生している車を目撃。
1837
「いつもはどちらで給油されるんですか?」
「給油したことないです」
「さようでございますか。失礼いたしました」
コイツに関わるな。逆らわずに退散せよ。
と、店員の心の声は言ったのだと思う。
1838
ガソリンスタンド敷地内の洗車機だったので店員が何かの勧誘にやって来た。
「お客様、当店でガソリンを入れることはありますか?」
「無いです」
1839
とは言えMIRAIが泥だらけで気の毒に思ったステルスは洗車場へ。
(自己修復塗装が施されているので洗車機へ。とは言えコーティングされてしまって無意味)
1840
首を絞めあえるくらい近くにいるなら手紙は要らないと思うだろうが、ファミレスでカップルが下を向いてそれぞれのスマートフォンを見ている時代の先駆けである。
(違う)(カップルは首を絞めあわない)(そこではなく)(無臭の話に戻りたい)
1841
亀有のアジトで撮影されたもので、I am only your modelのパロディーとなっている。
白黒ヤギからの手紙を菊池達也がスキップしながら配達する。
白は黒の手紙を食べてしまい、黒は白の手紙を食べてしまったことで争いになり首の締め合いになるという動画。
1842
ざっと見たところ動画サイトには無いようだ。
だが、これを見つけた。
youtube.com/watch?v=oyh7an…
1843
そういえば菊池達也の郵便配達員がキュートな白黒ヤギさんのムービーというものが存在したな。
1844
日本で臭いメシというのは麦飯のことらしい。
私は麦飯を臭いともマズイとも思ったことがない。タイ米も良い匂いだ。
25歳周辺。P-MODEL初期のころはお金が無くなる前、麦飯が私の常食だった。
あ!麦のようなヤギの目。
1845
かつて日本でコメ不足という事態が生じたとされ、タイ米が輸入された。
日本人の中にはタイ米が臭いと感じる嗅覚を持った人が多くいた。
タイでは悪いことをすると牢屋に入れられ「臭くないメシ」を食わされる。
海を越える悪臭相対論。
1846
ヤギは答えず、ただ悪臭を放つのであった。
1847
少し前、順調にフォロワー数が減少しているのを確認し、ほっとした日々を過ごしていた。
それがどうだ。今日見たらまた増えている。
その理由をヤギに問う。
1849
そこで私は一週間ハエトリグモの瞬間移動を観察し、移動点と移動点を繋いでみた。するとこんな文字が現れた。
バカモヤスミヤスミイエ
休む!
またこんど!
1850
万物「途中」仮設。
我々が認識している世界のあらゆるものは、まったく別のものの「途中」であるという仮説。