おトイレとかは心の問題ではなく身体の問題なので、たとえ心が女性でも身体が男性だったら女子トイレに入ってはいけないはずだと思います。「君の名は」みたいに入れ替わっている場合でも、身体が男性だったら男子トイレ、身体が女性だったら女子トイレだと思います。
私は20代の時からしばしば、何の理由もなく警察官に声をかけられて住所氏名を聞かれたりすることがあって非常に不快で屈辱的でした。でも好きな格好で歩くようになってからは、その格好で住所氏名を聞かれたり所持品検査をされても苦痛に感じなくなって、むしろ身体検査とかもして欲しい感じがします
私は一人でいる時よく過去の事を思い出して「ぼくバカだなあ」とつぶやきます。あの時あの人はどんなに呆れていただろう、あの人はどんなに迷惑だっただろう、あの人はどんなに傷ついただろうと悲しくなります。今はなるべくそういう事がないようにしようと思っているけれども、やっぱりあると思います
とても暖かかったです
でも変な人に絡まれました
私は幼児の時から、音楽とダンスの世界に対する憧れが強く、自分にその才能がないこと、またその願望を親によって踏みにじられたことに対する憎しみが私の人生の全てを支配してきたように思います。ですから私は決して音楽やダンスの世界を愛してはいなくて、むしろそれらに対する憎しみを持っています
望みを抱くことはすべての始まりだと思います。抱いた望みを表すこと、叶えられなくても望みに向かって少しでも行動することが魂がするべきことだと思います。自分の抱く激しい憎しみに欺かれてはいけないと思います。私はこれから死んで、また何度も生まれ変わって、いつかはたどり着くと思っています
ちょっと恥ずかしいけれども若い頃の写真です
いつも本当の事ばかりは言えません。また本当はこうすればいいと分かっていても、そのようにできないことが多いです。虚偽で真実を隠しながら生きるしかありません。しかし虚偽よりも真実のほうが幸せなのが明らかです。いつか虚偽から解放されて真実だけに生きられる時が来ないかなと思ったりもします
下北沢に変わった格好の人がいました
私は自分のお尻がちょっとかわいいと思っているのですが、思い込みにすぎないでしょうか
人の中には善と悪が共存しているのを感じます。悪が悪いのではなく、善と悪のバランスを失うことが悪いのだと思います。悪を排除して全く善になろうとしたりするとバランスが崩壊してその後には極端に悪が強くなると思います。しかし誰でも結局は信仰と希望と愛を求めずにはいられないのではと思います
立川や ああ立川や 立川や
学ぶべきものは三角関数とか金融経済とかではなく、翌日にむけた食事や睡眠のととのえかた、部屋の掃除片付け、挨拶のテンションを安定させること、時間配分、優先順位、急いでいる時こそ落ち着く態度、他人の言う事を謙虚に聞いてよく理解しかつ鵜呑みにしないこと、排便のリズム、コミュニケーション
私は高校時代は帰宅部で、悲しくて寂しい青春でした。もしやり直せるなら、運動部に所属したかったです。そして一人だけこの格好で球拾いとか声出しとかやらされてて部員たちの靴を並べたりとかしているのがよかったです。練習試合の時はお尻を振って踊りながら応援する係です。今からでもやりたいです
昔はよくプリクラを撮っていました
夢見がちに生きてゆきたいのは山々ですが、夢を追っていると必ず痛みと悲しみに打ちのめされます。現実を直に捉えてその一つ一つの細かい可能性を拾い出している時が一番明るい気持ちのようです。心に抱く美しい光景は夢ではなく心の中に生きて、たとえ今生でなくともいつかたどり着く所だと思ってます
夜遅くに帰宅して電気をつけるとゴキブリが床で気まずそうにじっとしていて、急いで物陰に走りこんでゆくので、むこうも色々気をつかっているんだなって、難しい問題だなって思います。
私たちには他人に依存したい、他人から依存されたいという欲求がありますが、それは心の傷や寂しさを埋めるためにお酒に酔ったり夢を見たりするような悲しい気持ちだと思います。夏の夜のお祭りに響く太鼓や光る提灯と屋台のように儚く愛おしい一時です。そこにずっといることはできないのだと思います
ゲーム制作会社を経営しているというツイッタラーが子育てについて自論を述べていました。「世の中で生きていく能力のない劣等な子供は昔なら子供のうちに死んでしまったが、現代はそれを大事に守り育ててしまうので、育てられた劣等な子供は大人になって社会に居場所がないことに気づき絶望するのだ」
しかし今になってから「自分は子供のうちに死んだほうがよかった」などと考えてみても実質何の益もありません。私には生まれてきた魂があり、自分を何とか育ててきた父や母の思いが自分の心の中にあります。水槽から深海に突然投げ出された弱い一匹の魚のように周囲をきょろきょろ見回しながら泳ぐです